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平和ってなんだろう【マタイによる福音書5:9】【やさしい聖書のお話】

明日8月15日が終戦の日ということで

今日はイエス様の教えの中でも特に有名な言葉のひとつ、この個所を読んでみることになっています。

平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。

マタイによる福音書5:9(新共同訳)

でも「平和」って何?説明できる?

平和とは

ウィキペディアで調べてみた

平和(へいわ、英: peace)は、戦争や暴力で社会が乱れていない状態のこと。(以下略)

ウィキペディア「平和」より

これだったら、日本は平和だよね。「戦争や暴力で社会が乱れていない」から。ほかの理由で社会が乱れてるかもしれないけど。

新キリスト教辞典で調べてみた

 日本語で平和、平安と訳されているヘブル語はšālôm、ギリシャ語はeirēnēである。平安は平和とほとんど同義である。
 シャロームの根本的な意味は、相互関係において調和があるということである。それは、無事平穏だという消極的な内容だけでなく、健康、長寿、繁栄、勝利、救いなど積極的な意味をも包含する言葉である。(以下略)

『新キリスト教辞典』(いのちのことば社)の「平和、平安」の項目より

「包含する」というのは、含まれるということ。
でもこれだと、平和だと思っていても健康でないなら平和とは言えないということになる。
救いを包含する(含む)ということは、キリストに救われていなければ平和ではないということになるのかな。
2014年ノーベル平和賞のマララ・ユスフザイさんはイスラム教。
2018年ノーベル平和賞のナーディーヤ・ムラードさんはヤズィーディー教。
「平和に貢献した」とされた彼女たちは、新キリスト教辞典としては「救いを包含する平和」と関係ないことになるのだろうか。

(左)パキスタンのマララ・ユスフザイさん。2014年ノーベル平和賞。イスラム教。
(右)イラクのナーディーヤ・ムラードさん。2018年ノーベル平和賞。ヤズィーディー教。

どうやら『新キリスト教辞典』の「平和」は、「平和というキリスト教用語の説明」であるっぽいので、今回はわきに置いておくことにします。

世界大百科事典で調べてみた

社会科学はこれまで,戦争についてほどには平和について知識を蓄積してきていない。実際,戦争の歴史は書かれても,平和の歴史が書かれることはなかった。(中略)平和とは失われて初めてその尊さがわかる類のものであり,平和のうちに暮らしているとき,ひとはことさらにそれに思いをはせることはなく,せいぜい平和ならざる他者の不幸との比較において己の平和を自覚するものなのである。

コトバンクの「平和」の項目より

どういうことかというと。
「戦争とは何か」について考えてきたほど「平和とは何か」について考えてないよねって。
平和でなくなったときに「平和って大事だったんだな」とわかるものだよねって。
平和なうちは、平和でない人たちの不幸を自分と比べて「私たちは平和だね」って思う程度だよねって。

もう、平和なんて人それぞれなんじゃないかって気がしてきた。
だからもう少しシンプルに考えてみる

国語辞典で調べてみた

① おだやかに、やわらぐこと。静かでのどかであること。また、そのさま。
② 特に、戦争がなく、世の中が安穏であること。和平。

『精選版 日本国語大辞典」

1 戦争や紛争がなく、世の中がおだやかな状態にあること。また、そのさま。
2 心配やもめごとがなく、おだやかなこと。また、そのさま。

『デジタル大辞泉』

 「戦争や紛争でなければ平和」て言えるかは難しいけど、少なくとも「戦争や紛争があったら平和じゃない」のは確かだよね。そうすると日本は77年連続で戦争も紛争もない、平和の国ということになる。

平和の国・日本

第二次世界大戦が終わった1945年から今年2022年まで77年間、日本は戦争をしていない。海外に自衛隊を派遣したことはあったけれど、幸いなことに自衛官はどの国の人も殺さずに済んで、そしてどの国の人からも自衛官は殺されなかった。

その間、世界は戦争だらけで、そしてその多くにクリスチャンが関わった。国のトップがクリスチャンで戦争が始めて、その国の教会が戦争を支持した、という戦争もいくつもあった。

東アジアの国々だけ見ても、ロシアはいま戦争中だ。
中国は台湾を狙って、今月も中国軍は台湾に攻め込む訓練を1週間も続けた。
北朝鮮は核ミサイルの開発を進めて、日本の方に試し打ちしてくる。
韓国は原則、男性は全員が軍隊に入って人殺しの訓練を受ける国で、実は北朝鮮と戦争が続いていてときどき攻撃しあっている。
そんな東アジアでの中で日本は(台湾とともに)平和を願い求める国でありつづけている。

先進国のどこよりも。
クリスチャンが多い国々や、国のリーダーがクリスチャンである国よりも。
韓国や中国よりも。
ぼくたち日本人は「平和を実現している人々」なんだよ。

77年間の平和ってどれくらいのもの?

77年も戦争をしていないというのは、すごいことだ。
日本も、国内での戦いは多かった。戦国時代が終わってから明治維新がはじまるまで、「徳川300年の天下泰平」と言われて武士も戦うことはなかったかのように言われるけど、実際はこの間も国内で戦いはあった。

で、戦いと戦いの間を平和と呼ぶなら、それが一番長かったのは、江戸時代のシャクシャインの戦い(1669年)から、宿毛一揆(1786年)までの117年間。
その次は平安時代の藤原是助の乱(947年)から、高麗国(現在の韓国)が九州全域を侵略した長徳の入寇(997年)までの50年間。
(ウィキペディア「日本の合戦一覧」を元に計算しました)
だから今の77年間の平和というのは、日本史上2番目に長く続いている平和な時代ということになる。

こんなにも平和を愛し、平和を実現している国、日本。
それでも日本人は「神の子と呼ばれ」ていない。なぜだろう。
それはたぶん、今の日本の平和は「今はまだ平和」というだけだからなんだと思う。「今の平和」は「今のところ平和」というだけでしかない。
77年も続いている平和というのはすごいけれど、まだたった77年でしかないんだ。今まで平和でも、これからも平和とは限らない。

じゃあ、ぼくたちがこれからも「平和を実現する人々」であり続けるためにどうしたらいいのだろう。

戦争とは

ここまで「戦争や紛争がない」というのが平和の意味の一つだとして話を進めてきたけど?

実は「戦争って何?」ていうのも難しいんだ。
たとえばいま「日中戦争」とよばれている、日本と中国(当時の中国は今の台湾)が戦った戦争は、当時は日本も中国も「これは戦争ではない」と言いながら軍隊同士戦ってたんだよ(日中戦争は当時の日本では支那事変と呼んでいた)。じゃあ戦争って何なんだよ。

たくさんの「戦争とは」の中でぼくが一番賛成できるのは「戦争とは、話し合い以外の方法で問題を解決すること」という考え方。

力を使って相手に言うことをきかせるのはすべて、平和なやり方ではないし、それはもう戦いだと言っていいと思う。
「こっちは強い暴力ありますけど?さからわずに、今のうちに言うこときいたほうがいいよ」という話し合いなら、それはもう暴力を使ってるのと同じだよね。

(c)藤子・F・不二雄

ジャイアンがのび太に「さからったらどうなると思うんだ?いうことを聞け!」てやったらどうだろう。それでジャイアンの言うことを聞いたからのび太は殴られなくて済んだということになっても、それは平和な解決ではないよね。
腕力。お金の力。大人数での大声での要求。「平和か戦争か」という二つに一つで考えるなら、これらは平和とは言えないよね。

たとえば「日曜日に学校行事があるせいで教会に行けないのは信教の自由の侵害だ」と裁判で戦うクリスチャンと、「キリスト教を信じなければ滅ぼす」といってアフリカや南米に軍隊を送って征服していったクリスチャンと、やってることは同じだよね。使ってる武器が法律か軍隊かの違いしかない。
8月15日に怒りの表情で大声で「戦争反対」と叫ぶクリスチャンたちと、靖国神社で戦争で死んだ人たちのことを思いながら静かに平和を誓っているお年寄りたちと、どちらが平和を愛していて、どちらが戦闘的だろう。

とにかく、戦争や平和について考えるなら、「話し合いによる解決」かどうかを考えるのが早い。
ただ、「戦争反対!平和が大事!」と思ってる人同士でも、それをどうやって実現するかは全然違ったりする。たとえば「平和のためには、戦争の道具である軍隊を持たないようにしよう」という意見の人も、「平和のために、強い軍隊で市民を守れるようにしなければ」という意見の人も、どちらも戦争に反対してるしどちらも平和が大事と思ってる。
違いは、軍隊に反対する人たちは「軍隊があるから戦争になるんだろ!」という意見になるし、軍隊が必要という人たちは「軍隊がなければ平和を守れないだろ!」という意見になるということ。

教会・クリスチャンの間違い

何度か言ったことだけど、教会は、クリスチャンは、間違え続けてきた。「聖書が奴隷制を認めている」「聖書は男が女よりえらいと教えている」ていうふうにね。
そして「平和を実現する人々は幸い」についても、平和を実現する方法を間違え続けてきた。

教会のかしらである主イエス・キリストは正しいけれど、キリストの体である教会はそこにいる人間が間違う。
そこでなぜ間違うのかというと、たぶんそれは「クリスチャンは正しい」という考え方をしてしまうからじゃないかな。
「唯一の神である主は正しい」だから「主の教会は正しい」「主を信じる我々クリスチャンは正しい」という考え方。でも、そうじゃないよね。
「クリスチャンは正しい」じゃない。
「正しいクリスチャン」を目指し続けるんだ。
そしてその「正しい」の基準は聖書です。ぼくたちは、聖書から出発して、聖書とともに歩んでいく。

主の教会を愛するということは、教会を神格化することじゃないんだ。「教会の頭である主の言葉である聖書に従う」と、「教会の人が言っていることに従う」とは、イコールじゃないんだ。
べつに「教会にさからえ」というんじゃないからね。そうじゃなくて「君が教会だ」ということだよ。「牧師が」「教団が」「みんなが」「声の大きいあの人が」じゃないし、もちろん「教会学校リーダーが」でもなくて、教会の一人一人の「私が」を大事にするということだ。

だから(あってはならないことだけどもしも)「教会の考え方は、聖書とあってなくない?」ということがあるなら、そして君が「主の教会」を愛するなら、その時は「違うよね」って声を上げなきゃいけない。
戦時中に日本のほとんどの教会で大人たちが「クリスチャンが神社に参拝しても問題ない」と言ったときに、ある教会の子供たちが「偶像礼拝だよね」ということで神社参拝を拒否して、それでその教会の大人たちも気づいたということがあったんだ(→美濃ミッションの神社参拝拒否を参照)
教会の人間は間違う。そのときに君が間違いに気づくために、そして君がイエス様を信じる信仰を守り、教会の間違いを直すために、聖書が何を言っているかに親しんでおくのが大事なんだ。

動画版はこちら

この内容は、2022年8月14日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。

動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、このページと動画の内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。

動画版は↓のリンクからごらんいただくことができます。


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