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万物を支配する「コンストラクタル法則」への抵抗策はあるのか。いや、ない

私たちはつまるところ、どこへ向かうのだろう。

宇宙はどこへ向かっていて、社会は、生き物は、人類はどこへ向かっていくんだろう。

なぜ、そのようなことが気になるのかといえば、この宇宙の神秘について知りたいという知的欲求のためでありながら、最終的には自分の生きていく道の、不確かさに対して、自分なりの納得できる何かを、掴みたいのだと思う。


私はそのために、本を読み続けている。

今回読んだのは、『流れといのちー万物の進化を支配するコンストラクタル法則』(エイドリアン・ベジャン)。物理学者の著者が、「これがすべてを支配する法則だ!」と半ば挑発的に論を展開する本だ。

物理学の有名な法則といえば「熱力学第二の法則/エントロピー増大の法則」はなんとなく知っている(放っておくとすべては乱雑へ向かっていく的なやつ←説明雑すぎ)。でもそれ以外に、何か多くのコトを説明してしまうような法則があるとしたらすごく気になる!そう思い、手に取った。

物理学でありながら論文ではないので、一般人にとっても身近な例を使いながら数式を省いて説明している。興味ある人は読んでみて。

以下、ほんの概要と、私の解釈と、私の反応。


万物を支配するコンストラクタル法則

本書によれば、生命とは「生物界と無生物界の両方の領域で自由に進化する動き」であるという。

また、そのような「動きながら自由に変化するもの」は、「より長く生きたい、食物や暖かさ、力、動き、他の人々や環境への自由なアクセスを得たいという衝動」を持っているという。

筆者のエイドリアン・べジャンは、本書の中で何度も繰り返しこのことを説明している。

​変化する自由を伴って動き、変わるものなら誰であっても、何であっても、より多くの、より容易な動きを求める衝動を持っている


加えて、そのような動きは常に階層制をとり、全体としてよりよく流れるように、流れそのものがより良い流れ方を見つけ、協働するという。

協働は、もっと楽に動きたいという各自の利己的な衝動に由来するデザイン
どんな流動系も不完全であり続ける定めにあるが、それでも全体として前よりうまく楽に流れるように絶えず形を変えている

つまり、少なくて大きな流動系(河川でいう本流)と、多くて小さな流動系(支流)は、それぞれ自分の衝動に従ってよりよく流れようと動きながら形を変えて流れるが、結果として、全体がよりよく流れるようになる。


また、以下のようにも主張する。

(このような)デザインの変更は、(中略)すべて良いもので、私たちの動きにとって有用なので定着する
うまくいくものが維持される。それが進化だ。どのようなことも許される。すべては恩恵を得るためだ
新しいものが古いものを排除したわけではない。新しいものは古いものに加わり、両者が揃ってグローバルな流れと地上の生活を高め、持続している。動きにとって、つまり生命にとって良いものは維持される

ここらでなんとなく本書の主張が見えてきたかもしれない。

いま世の中に浸透し広がるデザインや傾向は、全て良いものである、という究極のポジティブシンキングがここにはある。


だから、エイドリアン・べジャンにとっては、効率化の追求、機械が人間の代わりにすべてをやること、より多くのエネルギーを消費する(もちろんより少ない労力で)こと、それらはまず第一に歓迎されるべきものである。


コンストラクタル法則が賞賛され、また批判される理由

例えば、この『流れといのち...』という本が、より多くの人に広まり読まれ、アイディアが浸透してほしいという衝動を持ち、その立場からより良い流路を見出そうとする。その動きも本書の定義にあてはめて「生命」だと言っていい。

アイディアが広まり定着するならば、それは多くの人に有用だからそうなったのであり、良いことである、と考える。

そこで疑問を持つ人もいるのではないだろうか。

"好ましくない"傾向の広まりも、ありうるのではないかと。

しかし、そうすると今度は、「好ましい」「好ましくない」は「何にとって」なのか、という問題が出てくる。


(私のような)サステナビリティを標榜する者は、今の社会に露呈している問題や、将来世代に対するツケのことを持ち出して、だから「環境破壊を促進する動きは緩めなければならない」という。

対してコンストラクタル法則では、より効率的に、楽に、長く持続する流れを生むことを志向して、自由に形を変え動くことは自然なことなので、好ましいと考える。

(かといって当然のことながら、資源が枯渇して干からびることは誰も望んではいないわけで、効率化によるトレードオフを享受し続けるということもまた、ないっちゃないのである。)


コンストラクタル法則が、賞賛される理由もまた、よくわかる。

なぜならば、コンストラクタル法則では、あらゆるものの自由がなければならない。また、人間(やその他の生命)が当たり前にもつ衝動と、それに基づく自由な動きが常に肯定される。

より快適に過ごしたい、富を得たい、暖かさを得たい、相手を説得したい、スムーズに流れたい。そういった衝動に基づく全てのデザイン変更のことだ。

マイナス面を生んでいくにせよ、効率化を求め、利潤を求め、形を自由に変えていく行為そのものは常に受け入れられる。多くの人にとって、企業にとって、これほど救われる理論もない。


本流への抗い、そして眩しさ

思えば私はずっと、このような論の延長線上にある、「利潤のために、環境や人が犠牲になっても仕方ないじゃないか」「進歩していればあとは二の次三の次」という空気に対して、抗ってきた。

私はそのような、捉えどころのない、世の中が向かっていく方向を「(誰が何をしてもしなくても)どうせそうなっていく方向」と呼んで、かつてはそのベクトルを全く別の方向に変えることができると信じて止まなかったが、そのあと、やはり変えようのなさを嘆くようになり、今は全体のベクトルの方向は変えられないという前提でオルタナティブを提示していくことがせめてものミッションになっているわけだが・・・

ある種私にとって捉えどころのなかった「どうせそうなっていく方向」は今、「コンストラクタル法則(理論)」としてまとめられ、説明された。

清々しいくらいだ。実際のところ、とても納得感がある。私は抗いたくても、みんなそっちへ流れていくし、私自身も容易く流される。明らかにそれは、”本流(主流)”なのだ。

そしてこの本流なるものの浸透は、「資本主義だから」というレベルにはとどまらない。自由が与えられた瞬間に、たちまち広まっていく傾向なのだ。そして、その傾向ととても相性の良かった「資本主義」と呼ばれるイズムが継続しているに過ぎない。

もっと速く、簡単に、もっと遠くへ、もっと自由に。

時間の矢はこれを逆向きにすることはない。


抗ってきた身だからわかるが、この法則は、とっても強い。「万物の動きを支配するする法則」そのものだ。

そしてこの法則を信じている立場の人たちは常にパワフルである。何より、ポジティブだ。明るくて、眩しい。ネガティブな言葉ばかりを発する人よりずっとずっと素敵だ。

「私たちが進む方向の先には必ず良いことが待っている!」


支流を育てていく道

確かにそう、そうなのだ。私たちは生活がもっと便利になることを望んでいる。もっと速く遠くまで移動したい。それを可能にするテクノロジーが次々と生まれていく。そのことまでを否定する必要はない。

ただそちら側だけを志向するために、その他多くに対しての影響がほとんど顧みられなくてもかまわないという全体的な空気に抗っていきたいだけなのだ。

結局のところ、私に残されている道は、「支流を育てていく道」なのだと思う。

本流は、多くの人がそれを望む限りにおいて相当多くを飲み込み、ますます太く、長く、育っていく。それは、無意識でいたならば、いつの間にかそちらに流されてしまうような激しい濁流だ。

その本流に対する懐疑心はいま、いたるところで生まれている。これが支流の萌芽である。

だからといって急にどこかの有望な支流が本流に取って代わることはないし、コンストラクタル法則を無視した急進的な改革はおそらくうまく行かないだろう。

私たちは慎ましく根回しをして共感の輪を広げていくほかないように思われる。つまり、コンストラクタル法則というルールに則ってアイディアを広げていく努力をしなければならない。

そうして支流の存在感が認められるようになるとき、社会の構成員たちは、本流にどっぷりで生きていくこともできるし、本流の流れをくんだ支流を選ぶこともできるだろう。

いま、メインストリームをどうしても歩きたくない者たちがわらわらと溢れ出るようにして支流を作り育てつつある。いつかメインストリームを転覆してやろうなんて、今や信じていない。自分たちが心地よいと思える世界の実現を、ただただ望んでいる。

悲観的に言えば、私たちは当面メインストリームに接続する形で生きながらえるしかないだろう。しかし良いアイディアは浸透していき、徐々に流れに変更を加えていくことは可能である。

私はこれを希望と捉えよう。メインストリームに馴染むことができない自称"アウトロー"にとっての希望でもある。

圧倒的な、変えようのない、立ちはだかるものを知った今、いかにフリンジストリーム(支流)を長く太く育てていけるかどうか、それがサステナビリティ派にとってのチャレンジである。たぶん。

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