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赤レンガと平和

今月初め、満開の桜で賑わう東京・北区の飛鳥山公園を訪れたついでに、王子、十条一帯に残る古い軍事施設の跡を歩いてみた。広大な土地に、武器弾薬や軍服などをつくっていレンガ造りの工場が多数あった。今は家族連れでにぎわう公園や住宅地になっているその場所が、旧日本軍の装備を支えていたのだと思い知る。


まずは北区十条台の中央公園文化センター。白亜の堅牢な洋風建築が印象的。中には立ち入らなかったが、学習室や和室、視聴覚室などがたくさんあり、さまざまなサークルやグループの活動の場、生涯学習施設としても使われている。映画やテレビドラマのロケ地としてもよく使われているようで、古い時代の大学、裁判所、病院、警察署などとして登場しているようだ。

1930年(昭和5年)、東京第一陸軍造兵廠(兵器工場)本部として建てられ、戦後はこの建物を含む一帯が、米軍に接収されて、ベトナム戦争時には傷病兵を運んだ野戦病院(キャンプ王子)として使われていた。ベトナム反戦運動の時代には、デモ隊が病院を一部占拠し、多数の逮捕者を出す事件もあった。結局、こうした運動もあって、1971年(昭和46年)に米軍から日本に返還された。

建物の玄関脇に「皇后陛下行幸記念」と書かれた石碑がある。昭和天皇の香淳皇后がこの地を訪れたのは1943年(昭和18年)5月。造兵廠で銃器の製造にいそしんでいた、まさに「銃後」の女性たちを激励されたのだろう。


同じ東京第一陸軍造兵廠の第一製造所として弾丸を製造していた赤レンガ倉庫(旧275棟)は現在、リノベーションされて、立派な図書館(北区中央図書館)になっている。ツタの絡まる古いレンガと、新しくモダンでオシャレな建物の融合はグッドデザイン賞も受賞したのだそうだ。

目の前に広がる芝生では、柔らかな春の日差しを浴びて、ボール遊びに興じる親子の微笑ましい姿があった。戦争の遺構と平和な光景のコントラストが目にまぶしい。


隣接する陸上自衛隊十条駐屯地にも赤レンガの建造物の一部が残る。明治後期から大正時代に建設されたこうした赤レンガの建物が10万坪の広大な敷地に50棟以上あったそうだ。これだけ多数の建物に赤レンガを供給したのは荒川や隅田川流域の中小の煉瓦工場だった。

近づいてみると、黒い門扉の上に白い突起が並んでいる。説明板によると、建物は受電施設だったそうで、白い突起は碍子(がいし)とか。

造兵廠だけでなく、火薬庫や被服廠などもあった北区の王子、十条、赤羽の一帯は軍事施設や軍需工場が集まっていたことから「軍都」とも呼ばれていたそうだ。当然のことながら、米軍の空襲の標的になり、大きな被害があった。

なぜ王子や十条一帯にこれほど、軍事施設が集まっていたのか。広大な敷地があったこと、石神井川が隅田川に合流する地域で水も豊富だったこともあるかもしれない。よく知られているように製紙会社が集まる工業地帯で、王子の区立船堀中学校の校歌には「近代の大工業地」ともうたわれている。


さて、西へ向かって、JR埼京線の線路に面した区立十条富士見中学校まで来ると、また赤レンガがあった。案内板には「平成21年度に旧十条中学校の校舎を解体した時に出土したレンガ」だと書いてある。

こちらの赤レンガ塀は、東京第一陸軍造兵廠の跡。10万坪の敷地の一番西端に当たる場所らしい。東京で赤レンガと言えば、東京駅の駅舎、霞が関の旧法務省本館だろうか。横浜ならば、赤レンガ倉庫。王子・十条の赤レンガ群は、戦前の旧陸軍の時代を想起させる特異なものだった。


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