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巡礼母子像とハンセン病

東京・東村山の国立療養所、多摩全生園の敷地内に「国立ハンセン病資料館」があると知ってから、一度訪れてみたいとずっと考えてきた。ひょんなことから、資料館で「多摩全生園絵画の100年」という企画展が開幕したとSNSで知り、まだ肌寒い3月のある週末に思い切って、足を運ぶことにした。ハンセン病を巡る問題に強い関心を持ってきたわけではないのだが、心の深いところにしまってきた、駆け出し記者時代の取材の記憶がよみがえるのではないかと考えたからだ。

入社して岡山に赴任したばかりの1988年5月、岡山県にある国立ハンセン病療養所、長島愛生園と邑久光明園がある長島(岡山県瀬戸内市)に橋が架けられた、という話を記事にした。島は本土からわずか約30メートルほど、目と鼻の距離にあるが、国の強制隔離政策で長らく孤立し、ハンセン病が薬によって完治する病気になった後も、本土と隔絶され、入所者らは困難な生活を送ってきた。入所者たちにとって悲願の橋がついに架かる、という話だ。

長島愛生園附属看護学校のサイトより

入社して1カ月ほどで、記事の書き方さえも分からないころで、多分、事件や交通事故以外で書いた初めての記事だったと思う。当時、原稿を見てくれたデスクは恐らく頭を抱えたかもしれない。島に何度も通っていたという先輩が橋の開通直前に残念ながら転勤になってしまったので、それを引き継ぐ役としてなぜか自分に白羽の矢が立ったというわけだ。

事前取材で島へ行き、離島でなくなる喜び、ハンセン病に対する理解が進み、差別と偏見が解消することへの期待、みたいな話を入所者の代表の方から聞き、「人間回復の橋」と呼ばれた橋の開通式を当日も記事にした。

もしかしてと、押し入れを探してみたら、自分が書いた新聞記事の切り抜きのスクラップブックが出てきた。今、36年前の記事を読み返してみると、やはり通り一遍の内容で、入社間もない自分にとっては、自分の能力をはるかに越える大きなテーマだったと思い知らされる。ハンセン病について、その後、取材を続けることもなかった。

東京都人権啓発センターのサイトより

国立療養所、多摩全生園は雑木林が生い茂る、都心から離れた場所にある。生まれて初めて降りた西武池袋線・清瀬駅は、予想以上にこじんまりしていた。そこからバスで10分ほど。途中に、かつては結核療養所だった国立病院機構東京病院がある。人里離れた武蔵野のこのへんの一体に、結核やハンセン病の療養所が集められたのだろう。

バス停のそばにある門を入ると、すぐに資料館の玄関がある。その脇に「母娘遍路像」が立っていた。

中に入って企画展の前に、常設展をじっくり見た。それで、改めてこの像が意味するところが何なのかよく分かった。四国八十八カ所巡りとハンセン病には密接な結びつきがあるいうことだ。

仏罰による病、家系や血筋による原因不明の病と考えられていたハンセン病(らい病)の患者たちは、被差別者の集落に移り住んだり、治癒を祈りながら物乞い、放浪をしながら生きた。明治以降、公立の療養所に隔離する政策が始まると、放浪する患者を収容し、断種手術も行われた。特に、大正後期から終戦までは隔離が強化され、各地の自治体で「無癩県運動」が進められたほか、近所の人々の密告による収容もあったらしい。

八十八カ所札所を歩く巡礼者を手厚くもてなした四国の人たちの厚意、施しによって、故郷を追われ、放浪の旅に出たハンセン病の患者たちは生きながらえることができた。だから、お遍路さんの中には多くのハンセン病患者がいたのだった。

母娘遍路像の脇にある案内板には、私たちの社会が患者たちに放浪の旅を強いてきた歴史を振り返り、「世界に例を見ないこの悲しい風習は、社会的には偏見・差別がいかに人を、非人間的境遇に追いやるものであるかを示すものである」と書かれている。

と、考えているうちに、思い出した。野村芳太郎監督の名作「砂の器」はハンセン病を扱った作品だが、ラストのクライマックスのところで、父と息子が各地を放浪するシーンがあったはずだ。過去の回想シーンに、音楽家になった息子がピアノ協奏曲を演奏する姿が重なり、大変ドラマティックだったと記憶している。遍路の旅をしたハンセン病の患者たちは映画の父子だけではなかったのだ。


訪問の目的だった企画展は「絵ごころでつながる - 多磨全生園絵画の100年」というタイトルがついている。全生園の前身、第一区府県立全生病院の礼拝堂で1923年に「第一回絵画会」が開かれてから約100年。当時は、入所者による作品を展示した初めての展覧会だった。その後の園内での絵画サークルの活動や個人の作品などが紹介されている。


企画展のポスターには「絵を描くことがぼくらのすべてだ」とある。絵を描くことで隔離を余儀なくされた入所者同士がつながり、次第に職員とのつながりが生まれ、そして社会との唯一の接点になっていった。強制隔離によって人生を奪われた患者たちにとっては、絵を描くことこそが自分たちの生きる証であり、生きる意味を確かめる行為だったのだろう。逆に、園の外にいる私たちにとっては、彼らの描く作品はそうした社会をつくってきた私たちの歴史を否応なく思い起こさせるものだ。



雑誌「美術手帖」の記事で、企画を担当した吉國元学芸員は「病気の治癒、当事者の高齢化および減少により、いつかは園内の描き手がいなくなる。多磨全生園の約100年の絵画活動は終わりが見えている歴史であり、今後語り継いでいくことが大切になる。本展が、描き手たちが絵を通じて、どのように周囲とつながってきたかを振り返る機会としたい」と話している。

ハンセン病患者当事者たちは長いこと、国に人権侵害だったことの認定や賠償、名誉回復を求めて司法の場で戦ってきた。常設展ではそうした歴史が詳しく紹介されているが、その中に「人間回復の橋 長島架橋の早期実現を」という入園者自治会の横断幕の現物が掲げられていた。橋が架かり、それを取材してから36年。自分が書いた記事の意味が今になって、ようやく分かった気がした。

国立ハンセン病資料館の企画展「絵ごころでつながる - 多磨全生園絵画の100年」は9月1日まで。

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