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幼少期のわたし①

幼少期。
記憶に残っている一番古い思い出はなんだろうと考えたとき、自分の頭の中にあるものだけではやはり整理がつかないので写真を見返してみた。

すると。その頃の残像が蘇る。
母の自転車の後ろに乗って体操教室へ向かう途中の風景だったがよく思い出された。
母はパートをしながら、私がやりたいと言った習い事をせっせと通わせてくれていた。私の家は貧しい方で、小さなボロアパートに家族4人で暮らしていた。生活費も苦しかっただろうが、母はパートに内職をしながら家計を支えてきた。
1歳半から体操教室に通い、3歳には地元の文化会館のダンスに通うまでの間、幼稚園にほど近い体操教室へは長い坂道があったように思う。
当時は電動自転車なんてもちろんなかったので、母は私を後ろに乗せて立ち漕ぎをして坂道を登っていたのだった。
そして、自転車の「後ろ」は、今みたいな極楽シートではなく、荷台といった方が適切であるほど、網目の荒いかごの様なものだった。
だから、クッションがずれると痛いし、眠くなって力が抜けると落ちそうになる。もちろん、シートベルトもない。

私はとても身軽で体操は得意だった。
通い始めてすぐにトランポリンも上手にでき、柔軟性も良かったので新体操クラブから選抜されたのだ。その時、手紙をもらったことを今でも鮮明に覚えている。私はとても嬉しくて、その道に行きたいと思ったが、
貧しい家系ではもちろん選抜チームへ通わせるための費用はなく、なんとなくそこを辞めることになり、母は私を地元のダンスクラブの方が楽しい。お友達もいる。と言って、そっちへ導いたのだった。
実際はどうだったかわからない。でも、その時の私には、都合よく変えられた。そう感じたのだった。
これが、幼いながらもとてもショックだった出来事の一番古い思い出だと思う。
しかし、母はある意味間違っていなかったようで、私はダンスに目覚め、3歳から通い始めた地元のダンスクラブへは小学6年生まで通い続けることになるのだった。

その頃、私は同時に幼稚園にも通い始めることになる。
当時は働く母は珍しく、みな幼稚園のお迎えまでの時間にパートをするのが当たり前だった。
しかし、その幼稚園は延長保育があるため、母はその幼稚園に決めたのかもしれない。それが、英語幼稚園だった。
今でいうところのインターナショナルスクールとは全く違い、単純に英語教育がこれから必要になると考えた園長先生が、ご好意でアメリカ人の先生を入れ一部英語に触れる時間があるという幼稚園だった。
アメリカ人の先生は、英語の歌を教えてくれたり、簡単な英単語を教えてくれる。みんなその時間が大好きだった。
運動会では、英単語のゲームがあったり、大きなバルーンをみんなで膨らませて演技するものもあったりなかなか普通の幼稚園では味わえない行事の一つだった。そして、さらに変わっていたのが、園庭以外に、隣に運転教習所があったため、運動会や正月のお餅つき大会などは、その教習所で大々的に行われ、たくさんの人で賑わった。
それも今では全てなくなってしまっているのがとても寂しい。

幼稚園生の頃、クラスで人気の男の子がいて、ほぼ全員からチョコレートをもらっていた様に思う。
まだ義理チョコが盛んだった時代だったので、小さいチョコレートをいっぱい買った。
貧しかった我が家で、チョコレート菓子は珍しかったので、プレゼントする前に半分くらい食べてしまったように思う。
母に後ろめたさを感じたことを記憶している。
だから、今でも、あの義理チョコの入れ物を鮮明に覚えている。
小さなハート型で薄いピンク色のプラスチックで、赤い文字でなにやら書いてあった。
子供の手で持つにはちょうどよいサイズ感の小さな小箱だった。

小さい頃から、周りに比べて自分の家は貧しいと理解していた私は、ちょっぴり見栄っ張りなところが芽生え始めたのだった。


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