きらいなもの

僕には、嫌いなものがたくさんある。

できることなら、人の悪いところを指摘するより、良いところを褒める人でいたいし、物事のネガティブな面、リスクとか、気付きたくない。
何が嫌いかじゃなく、何が好きかで語りたい。

でも、そう思い通りにはいかないことが、ままある。

目についた嫌いなものを、「ここ!」「この人のこれ!悪いです!嫌いです!」と声をあげたくなってしまう。
全てを全て、理解してくれ、共感してくれとは言えない。

でも、僕が嫌いと思うものは正しいのだと。僕は僕の正義があって、理想があって、それを貫くために、敵と設定するものがあるのだと。それに決して屈してはならないのだと。
「たしかに」「君の言いたいことはわかるよ」「頑張ったんだね」と言ってほしい。

例えば、
薄い情報と、薄い言葉で作られた、薄いコンテンツ。

具体例があるわけじゃないけど、ネットを少し見渡すだけでも、それらは溢れている気がする。
どこか、ぼーっと毎日虚ろな顔で通勤電車に乗るような、心を感じない、判を押したような文章。
「いかがでしたでしょうか?」じゃあないんだよ、といつも思う。

僕は大人だから、書きたくもない文章や、資料、お知らせ、報告書、そしてそれを取り扱う仕事があることを知っている。
とっくに意味も意義も、砂漠に残された骨みたいになったとしても、なぜか存在し続けてしまうものがあると知っている。
あれはそういう何かの一端なのだろうか。と想像したりする。


例えば、
自分を俯瞰できないタイプの人。

僕自身もそういうタイミングはある。きっと頻繁に。
余裕がなくて、目の前のことだけでいっぱいいっぱいで、コミュニケーションをとる相手が自分の言葉をどう受け取るか、冷静な周囲からどのような目で見えているか、誤解される可能性があるか、気付けない。
そんな状態の自分は、激しく痛めつけたくなる。

僕がたまたま、人より少しだけ優しく(あるいは神経質に)生まれついてしまっただけなのかもしれない。とたまに思う。
いろんな人を見ていて「その言い方はきっと優しくない」「もっといい伝え方があるはず」「それはただ自分の都合を押し付けていないか?」「取り繕うとしてるけど本心が漏れ出てるよ」「遠回しに伝えたいことがありそうだけど、ハッキリ言うべきだよ」などなど、いろいろ思う。

きっと世界はずっと前から苦しくて、誰もが余裕がないだけなんだ。誰も意図して人を傷つけようとなんてしていないんだ。そう自分に暗示をかけながら。


なんだか、例えば〇〇ってたくさん出てきそうな気がしたけど、だいたい薄いものと、人に集約できてしまう気がした。

悪を憎んで人を憎まず。なんて言葉があった気がするけど、でもその悪を生み出してしまうのは結局人でしかないわけで、別に人を憎む必要も必然もないのだけど、悪を正すために、人になにか働きかけるのを諦めてはいけないのだと思う。

僕はこれだけ強気な言葉を振りかざしながら、一方で少し自分への反対意見を目にしただけで震えてしまうほど臆病だから、
大きな力で、誰かや何かを力ずくで変えることはできないと思っている。

ただ僕にはペンがあるから。

ペンは剣よりもヒプノシスマイク。

別に大層なことは考えていないし、世界を救うヒーローなんてとにかく面倒くさいなと思ってしまうけれど。
水面に石を投げるくらいは、やってみせるさ。

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