渡辺明名人の「えぐいよなあ」とはなんだったのか
(4月8日、「ひとつの結論」を追記しました)
第81期名人戦第1局。
挑戦者の藤井聡太竜王が渡辺明名人に勝利されたその夜、渡辺名人がTwitterに一言だけ「えぐいよなあ」と投稿されました。
対局の後は、指し手をまじえて簡潔な振り返りをされる渡辺名人だけに、この一言が重いです。
渡辺名人の仰る「えぐいよなあ」とはどういう意味なのでしょうか。
仮説1 意表を突く作戦に対応された
振り駒で渡辺名人の先手番と決まった本局。
角換わりと思われた出だしから、9手目で▲6六歩と、渡辺名人が自ら角道を止めました。
以降もなかなか戦型は明確にならず、日本将棋連盟のアプリでは、「戦型未定」→「矢倉」→「その他の戦型」と表示が変遷していきました。
明らかに藤井竜王が研究していない序盤に持ち込んだ渡辺名人でしたが、序盤から両者とも小刻みに時間を使い、一局を通じて消費時間に大きな差はつきませんでした。
終わってみれば、想定外の局面にも対応した藤井竜王の完勝という将棋で、渡辺名人からすると誤算だったのではないでしょうか。
仮説2 感想戦で読みの深さを見せつけられた
本局、大盤解説を担当された佐藤天彦九段が、
「感想戦ハラスメント」
と表現されました。
https://www.youtube.com/watch?v=eBnxhR46Aic
(動画の5:24:46頃から)
「あー…みたいな」
「あっそうみたいな」
「見えてんだーみたいな」
「失礼しましたと。鍛えなおしてきますと。言わされるんです」
もちろん大盤解説会のお客さんに向けた表現ではありますが、以前に渡辺名人も、こんなツイートをされていました。
藤井竜王の圧倒的な読みを痛感させられるのでしょう。
本局も1時間を超える感想戦のなかで、そういう場面があったものと思われます。
盤上の解よりも勝負、勝ちやすさを優先する渡辺名人に対し、藤井竜王は、
「勝ちやすいかどうかじゃなくて、読み切るかどうかなんです。みたいなこと盤上で言われていて」
と、佐藤天彦九段が大盤解説で語っておられたのが印象的です。
仮説3 悪手が分からないまま敗れた
仮説1ともやや共通しますが、本局はいわゆる「藤井曲線」のような将棋でした。
藤井竜王が有利な評価値から互角に戻ることはあっても、渡辺名人側に振れることはなく、まさに佐藤天彦九段が「感想戦ハラスメント」とした▲7七銀を見送ってからは一直線。
局後のインタビューで、渡辺名人は、本局は早い段階から苦しいと思っていた、どこが悪かったか考えるとどんどん遡らないといけないというようなことを仰っていて、なかなかこの手が、というポイントを見いだせないように感じました。
また、大盤解説も佐藤天彦九段も同様の見解のようでした。
この負け方は、藤井竜王と初めて対局した頃からのようで、「将棋の渡辺くん」でも触れられています。
ひとつの結論 価値観の違い
(4月8日追記)
対局が終わり、新聞記事や棋士のコメントを読み、ひとつの結論を持つに至りました。
最も大きな示唆をいただいたのは佐藤天彦九段の大盤解説です。
簡単にまとめます。
昭和の時代、羽生世代の棋士たちは、盤上に数学的な解を求めました。そこに到達できなくとも、真理を求める姿勢が大事という観念がありました。
そこに登場したのが渡辺名人で、棋理の追求には関心を寄せず、最終的に勝つために徹底的に仕事人であることによって平成の時代を席捲しました。
それが現在の令和になって、「勝ちやすいかではなく、読み切るかどうか」という将棋を突き付けたのが藤井竜王。
渡辺名人が排除してきた価値観を突き詰めたかのような棋士、藤井竜王に苦戦しているというのが佐藤天彦九段の見立てです。
朝日新聞の記事に、渡辺名人のこんなコメントがありました。
「全体の読みの精度が高い」という言葉が、佐藤天彦九段の見解を補強しているように感じます。
これまで自分が確立し、大棋士にも通用してきた将棋が跳ね返される衝撃というのは如何ばかりでしょうか。
Twitterに一言書きたくもなるでしょう。
以上、仮説とひとつの結論を考えてみましたが、もちろんこれらの複合的なものでしょうし、これ以外の要因もあると思います。
ただ、挑戦者を迎え撃つ名人が、「えぐいよなあ」とだけ表現された事実は重いものがあります。
終局後、
「次戦は少し先なので、また気を取り直して向かっていきたいと思います」
と語った渡辺名人。
第2局はどんな将棋になるのでしょうか。
藤井竜王の先手番で、4月27日・28日に静岡市の浮月楼で指されます。
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