負荷の恵み

ある人と話していて、こんな話題になった。みんなが自由を主張できる、よい時代になった。しかし当然のことながら、お互いが自分にとっての自由を主張しあうということは衝突を生まずにはおれないと。

「ありのままの自分」という自己イメージを、多くの人はなんとなくであれ持っている。そして「ありのままの自分」でいられる居場所を渇き求めている。今の自分は本来の「ありのままの自分」ではない、だからそれが実現、表現できる居場所が必要であると。その姿は紀元前後数世紀、ストイックに究極の真理を求めたグノーシス主義の人々のようだ。

「ありのままの自分」に辿り着けるなら、それはとてもよいことだ。手足を思いっきり伸ばして、深呼吸して、これぞわたし!解放感を満喫できるだろう。だが「ありのままの自分」を知ることは容易ではない。なんらかの解放体験にたどり着いた。これがありのままの自分であると実感できた、そう思っていた。だが、時間が経つにつれ違和感が。何かが違う。やっぱりこれもありのままの自分ではなかった。ありのままの自分は、もっと、こう、なんというか───多くの人は届きそうで届かない、ぼやけた自己イメージに苦しんでいる。

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