なぜ、わたしは排他的に信じるのか

時折こんな指摘を受けることがある。「宗教が人々の平和や来世の安寧を願うものであるなら、どれも本質は同じはずだ。なのになぜ宗教同士争ったり、貶めあったりするのか」
それと同時に、こうも言われる。「平和や安寧どころかますます争いや差別の種になるというのに、なぜあなたはキリスト教(なんてもの)を信じられるのか」

わたしは上記の指摘について、なんら反論の余地を持たない。だから「そうですね」と答えるしかない。それはそうと、なぜ、わたしはキリスト教を信じているのか。他の宗教ではなくて。

あるとき気づいたことがある。教会に初めての人がやってきて、わたしにこう相談した。「今、いろんな宗教施設を巡っているんです。どの宗教が自分にあっているか探していて」
とても真摯な姿勢だと思ったと同時に、そうか、そういえば自分はこういう入門の仕方はしていなかったな、と気づいた。

キリスト教諸教派があり、イスラム教諸流があり、仏教の諸宗派がある。神道もあれば、わたしが名前くらいは知っている、あるいはまったく知らない新宗教もある。そういう宗教のなかから、わたしは「うん、キリスト教がいちばん合っている」と選んだわけではない。スーパーに積まれたバナナのなかから、いちばん色合いのよさそうなものを手に取るように宗教を選んだわけではないのだ。わたしはよく考えもせずに、それこそたまたま遭遇したプロテスタントのキリスト教を信じるようになったのだ。

譬えるなら、それは恋愛にも似ている。「どんなタイプの人が好みですか」と尋ねられれば、わたしはなんらかの好みについて描き出すことはできる。だが実際に恋に落ちるとき、その相手が自分のタイプであるとは限らない。むしろ初対面時には恋愛対象とはまったく意識していなかった人を好きになってしまうこともある。わたしの恩師が結婚について「出会いがしらの交通事故のようなものさ」と語っていたのだが、彼はキルケゴールの研究者でもあった。出会いには後からの理由づけを超えた、なんらかの飛躍がある。

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