自分と向きあわされる

'さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 イエスはお答えになった。 「『人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 と書いてある。」 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。 『神があなたのために天使たちに命じると、 あなたの足が石に打ち当たることのないように、 天使たちは手であなたを支える』 と書いてある。」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。 『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』 と書いてある。」 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。 ' マタイによる福音書 4:1-11 新共同訳

「“霊”に導かれて」とありますが、この「導く」という言葉の原語(ἀνάγω)では、低いところから高い所へと持ち上げるイメージがあるそうです。だから、同じ言葉をルカによる福音書の4章5節では「悪魔はイエスを高く引き上げ」というように、「引き上げる」と訳しています。ルカでは、悪魔がイエスを地上からはるか上空へと引き上げて、世界を一望させたということですね。今回も、ガリラヤ湖は海抜-212m、死海は-430mだそうですから、その間を流れるヨルダン川もそうとう低いですね。そこからもっと高地の荒れ野へと、イエスは霊によって引き上げられたんですね。自分の足で坂道を登って行ったでしょう。でも、神に掴み上げられて無理やり連れていかれたというか。衝き上げてくる何かに圧され、イエスは荒れ野へと向かったのでしょう。

行った先の荒れ野は、人気のない寂しい場所。そんな場所で、四十日間も断食して、飢餓状態で悪魔からの誘惑を受けた。もしもイエスが悪魔を平然と斥けられたのなら、そもそもそれは予定調和、お約束、ただの儀式であって、誘惑とは言わないでしょう。誘惑されたということは、イエスは惑わされ揺さぶられたはずです。日本語でも魔が差すと言いますが、魔が差しそうになる、己の内にある黒々とした欲望と徹底的に向き合い、対話し、そのうえで斥けるプロセス。イエスもそういう苦しい体験をした。わたしたちが自分の苦しみの中で、自分の闇と向きあうのと同じです。この苦しいプロセスが、「導かれる/引き上げられる」ことです。このことは、わたしが日ごろ出遭う、苦しみにある人々のことを想うとき、実感させられることです。

教会に電話してきたり、来訪したりする人が、その人固有の苦しみをわたしに訴えます。その一人一人は、それぞれにとっての荒れ野にいます。自分の内にある限界や、自分は醜い、自分など大嫌いだと思い、できれば目をそらしたいと感じていること。目をそらしたいのに、そらすことができない。おのれの抱える闇から目をそらすことができず、否応なく向きあわされている。だから苦しくてたまらない。この人たちは、誰もいない荒れ野で悪魔と対話するイエスと同じです。イエスもまた荒れ野に引きこもり、孤立して、自分の内なる闇を覗き込んだのです。

だからこそ、わたしは信じたいのです。苦しむ人は、その人生において今まさに、神の霊によって、この荒れ野へと「引き上げられ」ているのだと。あなたは引き上げられ、前よりも高い場所にいるのだと。そしてイエスが悪魔を斥けたような何かが、苦しむ人の身の上にも起こるはずだと。わたしはそう信じて、これらの一人一人と関わり続けています。

荒れ野で独り苦しみぬいたイエスは、自分の内に次々に立ち現れる、その黒々としたものを見つめました。目をそらさず、というよりも目をそらすことができず、向きあわされました。おのが闇を覗き込んでしまったイエスは、否応なしに闇と対話させられたのです。その苦しみのなかでイエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、パンに食らいつく自分を支えている、神の言葉を再発見しました。そして「あなたの神である主を試してはならない」と、限界状況に身をさらしながら、神を疑って試す必要がないことをあらためて確信しました。さらには、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と、自分の軸あるいは芯はただ神だけ、他の何ものにも揺るがされることはない、自分はほんとうに自由なのだと安心したのです。安心できたとき、イエスの内なる闇は、霧が晴れるように去ったのでしょう。イエスは「悪魔を退け」たのです。

こういう苦しみを知っているイエスは、だからあなたに語りかけるでしょう。「そうか、あなたも今、悪魔と向きあっているのか。わたしも荒れ野で独りぼっちで、ほんとうに苦しかった。だからあなたのことがよくわかる。さあ一緒に行こう」。教会歴は今、受難節に入っています。イースターまでの、日曜日をのぞいた40日間を、イエスが荒れ野で体験した出来事に重ねましょう。あなたの荒れ野は、イエスの荒れ野です。お祈りします。

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