部分に集中するか、全体を探るか

わたしは牧師なのでさすがに神社で御守を買うことはない。しかしわたしの姉はクリスチャンではないし、寺社巡りも好きなので、行った先ではお札や御守を手に入れていると思う。

無病息災だったり安産だったり、そうした祈りを込める場所やモノを日本人は大切にしてきた。ところで、その寺社や御守の由来を詳しく調べる人もいるかとは思うが、多くの人にとって、それらは端的に「有り難い」のであって、ことさらその教えの中身を吟味することはないだろうと思う。

宗教というときに、西欧人は長くキリスト教をモデルに考えてきた。つまり、宗教には体系だった教義があるもので、その教義から外れないようにして宗教儀礼の伝統も守られてきたはずである、と。だから仏教にせよ神道にせよ、西欧人はそれらをキリスト教的な意味での宗教として捉えようとした。彼らはそこに厳密な教義を定義しようとしたし、その教義が示される根拠となる教典を探し求めた。だから教典や教義があいまいな、たとえば神道のような信仰を、西欧人は見くだした。明治時代、そのような西欧人ことに宣教師たちの在り方を、『怪談』で有名なラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は批判的に観ていた。

だが人類学者あるいは宗教学者は、やがて気づくことになった。信仰というときに、キリスト教のような意味での教義体系ありきの宗教ばかりとは限らないということに。いや、そもそもキリスト教でさえ、指導的立場にある神学者や聖職者ならともかく、一般信徒の多くはそのようには信じていないということに。

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