立場をわきまえず語る

このところ、自らの性的な欲望について語り続けている。書きたいことは今、それしかない。

ときおり同僚から言われる。「そんな欲望をひそかに抱えている牧師も、じつは多いのではないか」と。断っておくが、わたしは自分の性的な苦悩を普遍化したい意図はない。わたしにとって、わたしの性的な苦しみは「わたしの」それなのであり、「じつはアンタも同じように助平なんでしょう」と囁きたいのではない。じっさい、「この人にはたぶん性的な葛藤はないだろうな」と感じる同僚もいる。性的に達観している人、パートナーとの性生活にまったく問題を感じていない人、そもそも性に関心がない人…事情はさまざまであろう。

ただ、やはりこうも思ったりする。牧師に限らず、人は性的な欲望を人前でさらすことは社会的に禁じられている。もしもわたしが家の外を全裸で歩きまわれば、誰かが警察に通報し、わたしは逮捕されるか、逮捕まではいかなくても、職務質問はされるだろう。少なくとも裸で公衆の面前に出つづけることは禁じられるはずだ。裸がいけないということは法的領域に属する問題かもしれないが、その法的なことはおそらく、おのれの欲望を直接、人に曝すことへの社会的禁忌に由来するのだろう。

誰であれ、自分が望まない場面で性器を見せつけられたり、服は着ていても性的まなざしを向けられることは脅威である。それはセクシャルハラスメントである。芸能人などは性的な魅力も含めて自身を売っているかもしれないが、一般人はそうではない。わたしが、教会に来る女性を性的まなざしで見るなら、発覚はしていなくても、すでにセクシャルハラスメントの萌芽が生じている。

とはいえ、「セクシャルハラスメントはよくない」とは誰にでも言えることだ。わたしは「なぜセクシャルハラスメントを、それでもしてしまうのか」に関心がある。以前、あるクリニックへ見学に行った。そこにはうつ病などの患者だけではなく、痴漢や盗撮、強姦などの逮捕歴のある人々が、治療の対象として来院していた。彼らはアルコール依存症の人たちがするように円形に並べられた椅子に座り、お互い批判しあわない、言いっ放しの語りあいをしていた。わたしが陪席したからだろうか、彼らはまず、自分の犯罪歴のかんたんな紹介をしてくれた。そのあとで、「今週は痴漢したいと思わなかった」とか、おのおの直近の欲望状態を報告した。

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