25年前のこと(後編)
”おれが恐い死は、この短い生のあと、何億年も、おれがずっと無意識でゼロで耐えなければならない、ということだ。この世界、この宇宙、そして別の宇宙、それは何億年と存在しつづけるのに、おれはそのあいだずっとゼロなのだ、永遠に!おれはおれの死後の無限の時間の進行をおもうたびに恐怖に気絶しそうだ。”大江健三郎「セブンティーン」
”お前はクリスチャンか、とある人に聞かれたら捨吉は最早以前に浅見先生の教会で洗礼を受けた時分の同じ自分だとは答えられなかった。日曜々々に定まった会堂へ通い説教を聞き讃美歌を歌わなければ済まないことをしたと考えるような信者気質(かたぎ)からは大分離れてきた。三度々々の食前の祈祷すら廃している。では、お前は神を信じないか、とまたある人に聞かれたら自分は幼稚ながらも神を求めているものの一人だと答えたかった。あやまって自分は洗礼なぞを受けた、もし真実(ほんとう)に洗礼を受けるならこれからだ、と答えたかった。”島崎藤村「桜の実の熟する時」
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