回りつつ昇る

ある会議で、ブレインストーミングなるものを初めて体験した。今までも議論ならしたことがある。だが、みんなが好きにアイデアを出して、すごいスピードで話していく。話題は自由に、ころころと変わってゆく。変わってゆくかと思えば、いつの間にかもとに戻っている。こんな話し合いは体験したことがなかった。

ブレインストーミングをしていて面白いのは、「それってけっきょく、最初に言ってたことじゃん」と思うことがしばしばあることだ。さんざん話し合って、けっきょく振り出しに戻るような感じ。それなら、こんなに熱くアイデアを出し合ったのは無駄だったのかと、慣れないわたしは徒労感に襲われることもあった。

だけどそれは振り出しのように見えて、そうではないのが面白い。提案者は初めにそのアイデアを出した時点とは異なり「やっぱりこれしかない」との確信を深めている。そこが決定的に違うのである。ブレインストーミングの初めと終わりで、たしかにアイデアそれ自体は変わらなかった。だが円を一周回って戻ってきたのではない。螺旋を上昇したのである。「ほんとうにこれでいいだろうか」から、「やはりこれだ、これしかない」へと浮上したのである。

思えば、わたしたちは日常のなかで、こうして螺旋を昇ることを繰り返している。それは一見しただけでは分からないほどの、わずかな浮上である。周りからも、また本人の素朴な感覚としても、「また同じことを繰り返してしまった」という残念さや後悔が先立つ。だが落ち着いて、よくよく研ぎ澄まして考える。ほんとうにそれは「同じこと」なのだろうか。「繰り返した」だけなのだろうか。じたばたしながら、じつはわずかながら浮上したのではないだろうか。

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