わたしの言うとおりにやれ

“では君たちに聞こう。もし真理がだ、権力につぶされるような事態になるとするならば、君たちはどうするか。どうだ。これはいろいろ意見があるだろう。君たちの、じゃあ、三つに分けよう。まず、真理のために戦うという一つの意見と、そしてそういうものから逃げるという意見と、それから真理を捨て去って、その世の中に迎合するという三つだ。どうだ、じゃあ、まず戦うという人はどれぐらいいるか。じゃ返事をしてごらん、戦うという人。
(一同)はい!
では逃げるという人はどうだ。
(一同)...。
一人もいないのか。では、もうつぶされたんだから現世へ帰って、現世にまみれるという人はどうだ。
(一同)...。
うん、だとするならばだ、もっともっと、君たちは自覚を持たなければならない。何に対する自覚だと。自分は今生で解脱・悟りを目指すんだと。そして、もし真理を阻害するものがあるならば、それは打ち破っていかなければならないと。” 
麻原彰晃による富士山総本部での1989年4月25日の説法(藤田庄市著『カルト宗教事件の深層 「スピリチュアル・アビューズ」の論理』春秋社、2017年、92-93頁)※太字による強調は筆者

藤田庄市氏の上掲著作中には、他にも麻原彰晃の説法がいくつか引用されている。それらの引用は、彼らオウム真理教がカルト化し、未曽有の犯罪へと疾走していく経緯を考察するためになされている。ところがわたしは藤田氏の意図とはべつのものを読み取ってしまうのである。すなわち、麻原の語りの、カリスマ的魅力である。以前、テレビでサリン事件の特集を観ていたとき、逮捕前に録音されていた麻原の肉声が流れた。それは幹部の一人に、麻原が何かを問う場面だった。麻原は「~についてどう思う?」と幹部に問う。幹部が「...だと思います」と答えるや否や、麻原は「ちがう!」と鋭く切り返す。そしておそらく圧倒されたであろう幹部に、麻原は畳みかけるように自説を展開し、納得させてしまうのである。おそらくは麻原のこうした問いと否定の切り返しに、信者たちは預言者的なカリスマを感じたことであろう。

カルトというと、とにかく騙されるとか洗脳とかマインドコントロールとか、そういうイメージが真っ先に思い浮かぶ。そうしたイメージ自体は間違ってはいない。しかしインチキな教祖が内心「してやったり。ちょろいわ」と舌を出しながら信者を騙しているのかと言われれば、それはちがうとわたしは考える。教祖は独特の瞬発力をもって、その瞬間には快感さえ伴いつつ、「自分は相手に真実を預言している」と本気で確信しているのである。瞬発力とか瞬間とか書いたのは、やはり教祖もしょせんは人間なので、ふだんは「言い過ぎた、どうしよう」とか「もう後には引けないかも」といった迷いを内心に抱えている可能性が高いからである。教祖はそうした迷いや葛藤を抱えつつ、信徒の前では瞬発力で預言者の陶酔へとダイブするのだ。

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