クリスマスによせて

一足早いクリスマス礼拝が終わった。カトリックや正教会ならそれぞれの暦に則った、正しいクリスマスの日付および時間帯にミサや奉神礼を行うことだろう。しかし小さなプロテスタント教会では信徒の集まり具合などの事情から、直近の朝の礼拝をもってクリスマス礼拝とすることが多いのである。

わたしが働いている教会は、ふだんは10人前後の礼拝出席者数である。しかし今回のクリスマス礼拝は20人ほどが集まった。食事の差し入れなどもあって、礼拝のあとはバイキング形式で食事と歓談のときを楽しんだ。

このようなクリスマス礼拝では毎年必ず生じることであるが、インターネットでこの教会を知ってやってきた若い人たちが、以前からこの教会に来ている人たちと何らかのやりとりをする。わたしが交流を強制しているわけではない。また、交流といっても大げさなものではない。「どうぞ、お好きなものを取って食べてくださいね」とか「コーヒーのお代わりはいかがですか」とか、そういった程度のものである。そして場合によっては、そこからお互いの来歴についてのゆたかな会話も始まる、という具合である。

このささやかな交流こそが最高のクリスマスプレゼントだとわたしは思っている。コミュニケーションが得意か苦手かは、それほど問題にならない。寡黙な人はじっと座って静かにしているが、おそらくその人はその人なりに楽しんでいる。そういう人に対して、妙な気をまわす人もいない。また、気をまわし過ぎた結果「放っておく」こともない。うるさくない程度に誰かは声をかけるし、同時にほどほどに相手を解放もする。見知らぬ者同士のそういう関係が不思議なことに、なんとなく成立するのがこの教会のクリスマスなのである。

教会によってはクリスマスに伴う諸行事が忙しいところもある。それはそれで楽しいものだ。一方で、我らが教会では礼拝以外は何もない。礼拝のあとは、食事をしながらだらだら過ごすだけである。今日も20人近くの人々が、のんびりと食事と会話を楽しみ、三々五々帰って行った。

わたしの究極の目標は、教会が公園あるいは交差点のようになることである。もちろん、わたしは教会の二階につれあいと住んでいる関係上、平日はやむを得ず鍵をかけてはいる。ただ、少なくとも礼拝や金曜日の集会の折には、教会は公園や交差点、あるいは駅のような場所であって欲しいのである。公園に遊びに行く子どもたちにとって「こういう子は公園に来てはならない」などという前提はあるだろうか(いじめは論外である)。大人でさえ、本来は誰でも自由にベンチに腰掛けたり、ふざけてブランコなどの遊具で遊ぶことだってできるはずだ。そして交差点では多くの人々が何のためらいもなしに行き交うし、駅もまた然りである。わたしは教会もそれくらい人々が容易に行き来し出会える場所になって欲しいのである。

公園では時には子ども同士の喧嘩も起こるだろう。駅では泥酔したサラリーマンがぶっ倒れることもある。人々が自由に行き交うということは、トラブルが生じるリスクを背負うことでもある。教会が人々に開かれるということは、教会がそのようなリスクを背負うということである。だがリスクを恐がるあまり、「できればこういう人には来て欲しくない」ということを内心で考えていたら、そういう考えは必ず態度に表出する。いくらホームページやツイッターで「どなたでもお気軽にお越しください」とアピールしていても、結局は「ただし〇〇な人はお断りです」の本音が漏れてしまうのである。

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