スピリチュアルそして宗教

教会にはしばしば、スピリチュアル系への興味からお越しくださる方もおられる。スピリチュアルといっても幅が広いが、ここでは前世とか運命とかいった、自分はどこからやってきたのか、あるいはどこへと向かうのかに関する言説、それと占いをおもに指すことにする。

スピリチュアル系というと馬鹿にする方もおられるかもしれない。しかしスピリットすなわち、おのれ自身の由来や行く末を知りたいと思うこと自体は自然なことである。スピリットは魂や精神を指すが、もとは息のことだ。自分が今、呼吸をしていることを、ふとした折に意識する。なぜこの呼吸は止まらないのか。今晩眠って、寝ている間に呼吸が止まり、明日はもうやって来ないとしたら?そんなことを考えたことはないだろうか。

この呼吸の源はどこからやってくるのか。そして、どこへと向かっていくのか。たしかにそれは「誕生」そして「死」という一区切りをもって、いわば線分として理解される。線分は有限な直線である。しかし、もしかすると「誕生」以前もあり、「死」以後もあるかもしれない。わたしの息は、線分ではなくて直線、すなわち始原も終末も見えない永続なのではないか。そういうことを考えてきた人々は、歴史上枚挙にいとまがない。その痕跡が古代の哲学や諸宗教に遺されている。

先述したように、スピリチュアルなものには、自分がどこから来て、どこへと向かうのかというような、前世や運命にまつわる言説もあれば、もっと短いスパンの「今週の占い」といったものまで、さまざまある。スピリチュアルには宗教のような教義体系はない。数多くの占い師やセラピストがそれぞれに発信したものを、消費者が適宜選んで受けとるのだから当然である。

ウィラースレフという人類学者が書いた『ソウル・ハンターズ シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(奥野克巳ほか訳、亜紀書房)のなかに、おもしろい譬え話がある。シベリアの先住民ユカギールたちは、ウィラースレフのノートパソコンに非常に興味を示したという。ウィラースレフはユカギールたちの精霊信仰について、次のような譬えをする。ノートパソコンを使用している自分は、ノートパソコン全体の仕組みなどには興味が向かわない。その意識は今書いている原稿のみに集中する。ところがパソコンが故障すれば、どこにトラブルが生じたのかとパソコンそれ自体に関心が向かう。ユカギールたちの精霊信仰もそうなのであって、彼らはふだんから精霊の教義体系(この世界全体)に関心を持っているのではない。彼らはそうした全体的教義に興味はない。病気の罹患や獲物が取れないといったトラブルへの備えあるいは対処として、その場その場で必要な精霊相手に祈るのである。その精霊が平時にはどこに棲んでいるのか、この世界がどうやって出来たのかには、彼らはそれほど関心を持たない。

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