責任をとらずに責任をとる

藤藪庸一『あなたを諦めない 自殺救済の現場から』(いのちのことば社)を読んでいた。読みながら、奥田知志牧師によるホームレス支援のことを想い出していた。

牧師個人ではどうにもできないことを、NPOを立ち上げ、スタッフと共に支援体制を作ることで実現可能にする。そのスタイルは奥田牧師も藤藪牧師も共通している。また、ホームレスと自殺志願者とは、帰る場所がなかったり、巨大な負債を抱えていたり、他人とうまくやっていけなかった過去(や現在)があったり等において、通じる要素もある。

一方で相違点もある。奥田知志牧師は『「助けて」と言おう』(日本基督教団出版局)のなかで、ホームレス支援に必死になっているうちに息子が不登校となり、目の前の家族さえ助けられなかったという無力に打たれた体験を語っている。しかし藤藪庸一牧師の息子と娘は、家にいつも他人がいることを喜び、娘は不登校になったクラスメートを里子にするよう親に提案さえする。家にいつも他人がいることのつらさについては、他者を助けることに全力を尽くした榎本保郎牧師の娘、榎本てる子牧師も赤裸々に語っていた(『愛し、愛される中で: 出会いを生きる神学』日本基督教団出版局)。それぞれの家庭には他とは比較できない特殊性があるため、軽率なことは言えない。しかし少なくとも、わたし自身が同業者から見聞きしている事例と照らしても、藤藪牧師の家庭の例はきわめて珍しいとはいえる。

とはいえ、奥田知志牧師が困難の連続で、藤藪庸一牧師が順風満帆というわけでは決してない。両者いずれも、人間を相手にしている。人間同士の関係は、予期せぬトラブルを生じさせる。信じた人に裏切られたり、ある日突然姿を消されたりすることもある。もしかしたら成功例のほうが少ないかも?と思わせるほど、それらの事例は強烈なインパクトを持つ。人と関わることにはエネルギーが要るが、その見返りが失踪や裏切りであったとしたら、「こんなことしていて意味があるのか」と思ったとしても自然なことである。

じっさい、わたしの友人に、若い頃に生活保護者支援を行っていたが、被支援者からの心無い態度や暴力にさらされる体験をとおして、次第に支援から距離を置くようになった人がいる。友人の「挫折」談には迫りくるものがある。人を助けるということがどれほど苦しいことか、また、支援者にはどれほどの覚悟が必要なのかが、彼の証言からは伝わってくる。

こうした失敗や挫折の話を聴いていると、「しょせん人が人を救うなんてできない」とか、「自分を救えるのは自分自身だ」という言葉が、俄然力を持ってくる。それならば、なぜ奥田牧師や藤藪牧師のような人たちが出てくるのか。キリスト教だけではなく、お寺でそのような活動をする僧侶もいる。わたしが知らないだけで、他の宗教者でそのような活動をしている人もいるだろう。純粋に無宗教な支援団体ももちろん数多くあるが、ここでは宗教者が発起人となって支援活動をしている例について考えてみたい。

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