意味の真空

神学生のとき、次のようなことを習った。アウグスティヌスは悪を悪それ自体として実体的なものとみなすことをせず、善の欠如と定義したと。イメージ的には、善が充満している状態にところどころ欠けがあり、その欠けた隙間が悪と呼ばれているということになろうか。

わたしは悪に実体性を認めないアウグスティヌスを、ずいぶん理想主義的だと内心嗤った。善の欠如なんてもんじゃないだろ。圧倒的な悪がこの世には満ち溢れているじゃないかと。おりしも9.11の時代であった。

だが、わたしも牧師になり、司祭としてのアウグスティヌスを想うようになった。彼も司祭として、この世界にあふれる苦しみ、敵意や悪意を肌で感じていたにちがいない。彼は机上の空論として神学をしたわけではない。圧倒的に邪悪なものを前にして、彼は祈りつつ、勇気をもってそれを「欠如」とするにとどめたのだ。

教会にはさまざまな苦しみを抱えた人が相談に来る。遠隔地の人は電話で連絡してくる。いずれにせよ彼ら彼女らは、二重三重にもつれあった苦しみに縛られており、身動きが取れないでいる。かといって、彼ら彼女らは何もしないでいきなり教会に連絡してきたわけではない。それぞれに自分の抱える問題に対処しようと、医療や福祉や法律など、精一杯さまざまな手段を講じてきたのである。そうした手段をとおして部分的には解決した問題もあるだろう。しかしそれとは別に、それら個別の事案を超えた仕方で、彼ら彼女らは苦しんでいるのだ。すなわち、「なぜ、わたしはこんなに苦しまねばならないのか」という苦しみである。

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