あなたは読まれている
といっても陰謀論の話ではない。以下、少々おつきあいいただきたい。
あなたは今、小説を読んでいる。それはとても面白い。さまざまな場面が鮮やかに浮かぶ。映像よりも自らの体験として迫って来る。自分がそこに、文字のなかに、居合わせている。読み終わるのが惜しいので、あなたはわざと頁をめくる速度を落とす。
こういう読み方はとても創造的である。事実としては著者が小説の作者であり、あなたは読者である。だが、単純に著者が製造者で読者のあなたは消費者だという二分法にはならない。なぜなら、あなたはあなたの精神、文字を追う眼、頁をめくる指、読む姿勢や首の角度など、あなたの心やからだ全体をとおして読書という行為を創造しているからだ。小説を映画に譬えるなら、あなたは映画館を建てるところからやっているといってもよい。そうした一連の創造的行為がなければ小説はただの印刷物なのであって、せいぜいのところ重石代わりか部屋の飾りである。あなたも創っているのだ、物語を。あなたもその一端に参加しているのである。
では、小説の遠いルーツともいえる聖書はどうだろう。聖書は小説のように通読する場合と、ある断片を読む場合とがある。後者はとくに礼拝において洗練されていった読み方である。たとえば福音書であるが、四つある福音書はそれぞれ一人の著者が執筆した小説作品ではない。それらはイエスにまつわる諸伝承の寄せ集めである。
福音書はいちおう、イエスの誕生、福音宣教から十字架の死、そして復活と昇天という順序にある程度まとめられてはいる(もちろん福音書によって細部は違う。イエスの誕生に言及しないマルコ福音書が最古とも言われる)。だが基本はまず人々が口伝えしてきた伝承があり、それが文字化された諸断片となって、それら諸断片がマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの福音書にまとめ上げられた。四巻の福音書のまとめ方にはそれぞれ独自の意図があるという意味では、小説的である。だから通読しても面白い。だが、もともとの伝承のごとく、ある一場面だけを「伝え聞く」ように読む醍醐味も、福音書は今なお持っている。
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