時間があるときに

数年前、わたしは精神科病院に3か月ほど入院した。それはしたくてしたわけではないし、むしろいやな体験だったとさえいえる。けれども、今振り返ってみて、そう、今、このコロナ禍で思うように動き回れないという文脈から振り返ってみて、いろいろ再解釈できることがあると気づいた。

わたしが何かをする。とくに、なにか大きな失敗をする。当たり前だが、失敗したその出来事に注意が集中する。なんでこんなことをやらかしたんだろう。あのときああしていれば。想いだすにつけても悔しいし恥ずかしい。しばらく引きずる。日ごろ忙しく動き回っているときには、そういう引きずりを重く感じながらも、とにかく物事を前に進めていくしかない。

しかし今、行動に制約があり、そのぶん時間もある。もちろん現在もなお多忙のきわみにある読者もおられるとは思うが、あくまでわたし個人に関しては、集まっての礼拝もできないし、毎週金曜日にやっていた聖書を読む会もできない。なので、相談の連絡をしてくる人以外に誰とも会わない日々が続いている。そういう日々はわたしにとって、あの入院の日々を想いださせるものがある。

入院していたとき、要するに自分は何をしていたのか。入院のきっかけは、ある仕事上のトラブルであった。わたしが職場での人間関係、信頼関係諸々を破壊しつくすような言動をとったことである。キレて大声をだしてしまったのだ。そういうことを、園長で牧師ともあろうものが一度やらかせば、ゲームオーバーである。実際にはゲームオーバーではなかったのかもしれない。しかしわたしは「もう終わりだな、死ぬな」と思ったわけである。

それで入院して、わたしは医師の助けのもと、自分を見つめ直し始めた。入院しているのだから、それしかすることがない。だからひたすら自分を見つめる。自分の過去の蓄積について集中的に回想し、今回のトラブルがどのような文脈で生じたのかを徹底的に吟味する。「なにもかも自業自得だ」と自己卑下に陥るのでもなく、「わたしは悪くなかった」と被害者ポジションに居直るのでもない。さりとて「ようはバランスだよね」みたいな安易な答えに安住するのでもない。言葉を重ね、過去を鮮明に見つめ、そうやって自己を深く掘り下げていった。「ああ、今回はやらかしたな」の、そのやらかしは、今回とつぜん起こったのか。いや、そうではない。こうなるに至るまでの、伏線はあった。ここまでではないにせよ、また、表面化はしなかったにせよ、似たようなトラブルを、わたしはこれまでの人生で繰り返してきた。では、今回の出来事は、いったいどんな地の上に生じた図であったのか。そのことをわたしは、詳細に観察していったのである。

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