わたしはあなたに神を観る

正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い/裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え/欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。 エレミヤ書 12:1

主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。 エレミヤ書 20:7  
             本文中に登場する聖書の言葉はすべて新共同訳

キリスト教という宗教を信じていてよかったなと思うことの一つに、「腹が立つときは腹を立ててもよい」というものがある。
聖書のなかにはネガティヴな呟きがたくさん記録されている。その赤裸々さに、インタビュー記事を読んでいるかのように感じることさえある。たとえば、冒頭に引用したエレミヤという人物は預言者である。預言者というとなんだか厳格なイメージがある。
だがそんな彼が、こうして弱音を吐露しているのだ。「預言者稼業も楽じゃないよまったく。みんなで寄ってたかっておれのこと好き放題言いやがって」と、居酒屋で文句を垂れる働き人のようだ。

キリスト教といえば愛や忍耐、寛容などが思い浮かぶかもしれない。ホテルのチャペルで結婚式をしたことのある人、あるいはそこに参列したことがある人なら、次のような文句を(アルバイトの、多くは英会話教師などが演じているだけの)牧師が語るのを聞いたことがあるだろう。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。...」(コリントの信徒への手紙一 13章)。だからキリスト教徒が不機嫌になったり、ましてつまらないことで怒ると、「キリスト教徒なのに」と批判されたりする。

だが殴られても蹴られてもニコニコしているとしたら、それはそれで異常である。愛が語られるのは、先に語ったような苛立ちや幻滅、徒労感や悲しみといった文脈があってこそなのだ。いつもニコニコできるのに、愛を語る意味があるだろうか。愛を語る必要があるというのは、そこにリアルな、生々しい、人間の生きざまが記憶されているからである。

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