ただ復活したんじゃないよ ~イースターに寄せて~

'さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 ' マタイによる福音書 28:1-10 新共同訳

イースターに祝われるイエス・キリストの復活は、死からの復活です。まあそれはそれとして。世のなかではピンピンコロリへの憧れがあります。また、終活というからには、心残りなく死ぬことが善いという価値判断もあるのだと思います。いっぽうで、志半ばで倒れ、長い闘病の末に亡くなることや、孤独死すること、自殺すること。その他さまざまな「無念な死」。それらの死はとてもつらいこと、避けたいこととして語られます。偉そうに話していますが、わたしもまた、自分がそういう死に方をするかもしれないと考えたら、やっぱり不安になります。

今、教会には何気なく十字架があります。教会といえば十字架マーク。十字架は、イエス・キリストの受難そして復活の象徴です。ところでイエスがこのような死と復活を遂げる以前、十字架はどのような意味を持っていたか。端的に言って絶望です。十字架はただの犯罪者ではなく、ローマ帝国に対して反乱や暴動をした人が、見せしめに殺された処刑方法です。イエスが幼かったころにも、ガリラヤのユダという人がリーダーとなり暴動を起こしましたが鎮圧され、彼を含めて二千人もの人々が磔(はりつけ)にされ殺されたそうです。そんな十字架は、人々にとって「どうせ力には逆らえない」「何をやってもムダ」「どんなに不条理な目に遭おうが、しょせん黙って大人しくしているしかない」ということの象徴でした。こんにちとは全く意味が正反対だったのです。十字架で殺されることは、力への敗北、無意味で虚しい死でした。

イエスが復活したというとき、もしもピンピンコロリで亡くなったイエスが棺から起き上がったんだったら、「へえ、珍しい話もあるもんだなあ」で終わったでしょうね。そうではなくて、人々のために精一杯いいことをしているのに報われず惨殺されたイエスだから、人々は驚いたし、喜んだのです。

十字架の惨殺はじつに虚しい、無意味な死と見える。惨殺それ自体も痛いし苦しい、それも裸で磔にされる不名誉の極み。役に立つことといえば、せいぜい処刑ショーという見世物としての役割のみ(世界各地で、さまざまな時代にわたって、処刑が見世物としての役割を果たしていました)。そういうネガティヴなものすべてが凝縮した十字架での死。その死から起き上がったから、イエスの復活は希望なんです。というのも、そのことをとおして、同じように十字架刑で殺されていった、虚しい死を遂げた人たち、あるいは十字架でなくても「なんでこんな死に方をしなければならないんだ」という死を遂げた人たちすべてが、同じようにもう一度起き上がる希望を、イエスがその身で見せてくれたからです。今や十字架は絶望への入り口から、絶望からの出口に、希望への入り口に変わったのです。

わたしたち一人ひとりも、イエスとはかたちは違うかもしれないけれど、それぞれの十字架を負っています。もしかしたら、わたしやあなたは、十字架の苦しみに似たような死に方で人生を閉じなければならないかもしれない。ピンピンコロリで逝ける保証はないのですから。それは考えだすととても怖いことだし、そういう死を想像しただけでも不安になります。けれども、イエスもあなたやわたしと、その同じ道をついていってくれます。何しろイエスは絶望を舐めつくした先輩ですから。そんなイエスが、十字架の向こう側に開けている場所へ、わたしたちを連れて行ってくれるでしょう。

ネガティヴな死に方を、わたしたちは見つめてもよい。見つめたら、たしかに怖いし、不安にもなる。でも、独りではないことは確かです。イエス・キリストが、その怖さや不安のうちに、共にいてくれるから。天使は言いました。「確かに、あなたがたに伝えました」。その出来事から数十年。パウロは言いました。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」。(一コリント15:3)。わたしたちにつきまとう暗くて重いもの、すなわちわたしやあなたの背負う十字架を想うとき、そこにいつも、すでにその道を通ったイエスがいるということ。その事実を、わたしたちは確かに伝えられたし、その伝えられた事実を受けとったのです。

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