「あとから思い出す」聖書のおはなし

'その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。 「ホサナ。 主の名によって来られる方に、祝福があるように、 イスラエルの王に。」 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。 「シオンの娘よ、恐れるな。 見よ、お前の王がおいでになる、 ろばの子に乗って。」 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。 'ヨハネによる福音書 12:12-16 新共同訳

イエスがエルサレムに入るときに、馬ではなくてロバの子に乗って入ったんだそうです。馬は古代の戦車にも使われていましたので、今で言う軍事力、象徴的には王の権力を表していたかもしれません。しかしイエスは、人々の生活に馴染み深い家畜であるロバの子に乗ったといいます。ゼカリヤ書9章9節には、このようにあります。「娘シオンよ、大いに踊れ。 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。 見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って」。馬ではなくロバに乗っていることは高ぶっていない、つまり傲慢ではなく、むしろ弱い立場の人々と共にあることの証しなんですね。

イエスはなぜロバに乗ったのか。弟子たちには、その時点では意味が分からなかった。けれども「イエスが栄光を受けられたとき」、つまりイエスの十字架と復活のあとになって意味が分かった。そうか、あのときゼカリヤ書に書かれていた預言が実現したのかと。後になって意味が分かったという、それを「思い出した」と言っている。これはとても大切なことです。

信仰というのは、もちろんリアルタイムで感激を伴うこともありますが、後から振り返って「今にして思えば、あれはかけがえのない、不思議なことだった」と感じることも多いのです。この王子北教会は今、おそらく王子北教会の歩んできた60年の歴史のなかで初めて、皆で集まっての礼拝を休止しています。わたしは今、静かにこれまでの礼拝を振り返っています。毎週の礼拝を当たり前のようにやっていたことを。そして礼拝出席者の多い少ないに一喜一憂していた日々のことを。

しかしそもそも、人数の多い少ない以前に「礼拝を毎週当たり前のようにやる」ということ自体が、当たり前でも何でもなかった。それは神に許され、神の恵みのもとで、初めて成り立っていることであった。毎週「当たり前のように」礼拝ができるということの、なんというありがたいことだろう。そのことに、今日の聖書箇所にあるように、後から思い出して感謝しているのです。思い出すというのは、たんに当時の映像が脳内に再生されたのとは違います。思い出したときに、その当時には分からなかった意味の深みへと道が開かれるのです。

信仰において、思い出すことは恵みです。思い出した結果、後悔することもあるでしょう。当時は何気なくやったことだが、今思えばなぜあんなことをしたのか、恥ずかしい、悔しいと。弟子たちも後悔しながら振り返っている場面があります。イエスの十字架の際、イエス独りを置いて逃げてしまったことです。もっとイエスを理解したかった、イエスの言葉を聴いているその場で感じ取り、イエスに対して誠実に応えたかったと。恥ずかしくて悔しいからこそ、これからはもっとイエスの一言一言、そしてイエスの十字架と復活の意味を、より深く受けとりなおそう────それが福音書へと結実しているのです。

わたしは信じます。今、皆さんが味わっておられる苦しみが、必ず後でゆたかに振り返られる日が来ることを。あのときは渦中にあって分からなかったけれども、今なら噛みしめることができる───そういう日が神さまによって与えられると。お祈りします。

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