象徴世界から「勘」の世界へ
わたしたちは危険を身体で察知する「勘」を失った。その代わりに、言語的能力を駆使して危険要素を予測する能力を獲得した。
たとえば鯰が地震を察知するような意味での「勘」を、わたしたちは身体的にもはや持ち合わせてはいない。1994年、わたしは熱帯魚の鯰を飼っていた。水槽の底でじっとしているのが、どこか愛らしい鯰であった。別の小さな水槽ではドジョウも飼っていた。年が明けて1月中旬の夜。それらが知らぬ間に水槽から飛び出して、死んでしまった。わたしは死骸を片付けながら母に「地震でも起こるのかな?」と冗談を言った。翌未明、それは冗談ではなくなった。
わたしは地震をかけらほども察知できなかったが、鯰やドジョウたちは身体で感じたのだと思われる。それは言語以前の「勘」である。わたしには「勘」がない。その代わり「鯰やドジョウは地震を察知したのだろう」と、因果関係を推測する言語能力がある。そしてその言語能力は、また同じような事態が生じれば地震に対して身構えようという動作を促すだろう。
「勘」を失ったので、さまざまな危険を言語的に予測して行動する。だが予測をやり過ぎると、それは不安へと膨張してしまう。わたしは、あるニュースを見た後「隕石が自分の頭上に降るかもしれない」と予測した。だがその場合、予測してみたところで、それを防ぐ手段がない。隕石の落下速度は知らないが、おそらく弾丸以上だろう。わたしの頭に小石ほどの隕石が命中したとして、わたしは気がつけば(というかそのとき意識はないだろうが)頭が吹き飛んでいるはずだ。だからそんなことを予測しても意味がない。そもそも隕石が地球上の、人の住む地域に落ちる確率、さらにそのなかでも、人そのものに命中する確率というのは、かなり希少なものだろう。そんな、起こるか起こらないか分からない、起こったとしても手の打ちようのないことまで予測するのは、たんなる不安である。
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