「神に委ねる」ことは思考停止か──どうしても納得できないことをめぐって
伝道者駆け出しの頃、年長の牧師や、果ては同期の伝道師からさえも頻繁に言われたものである。「人間的な思いにとらわれず、すべてを神に委ねたらいい」。老いも若きも、彼らはじつにおだやかに、落ち着いた笑顔でわたしにそう言うのだ。
わたしは時に反抗し、時に落胆しながら、まるで自分だけがプールサイドに突っ立っているように感じたものだ。みんなプールのなかですいすい泳いでいる。彼らは時折水面から顔を出しては「君も飛び込みなよ!」と、わたしに呼びかけてくる。わたしはといえば水面を覗き込みはするのだが、恐くて飛び込むことができない。あるいは飛びこみ方について、いつまでも飛びこまずに腕組みして考えている。
プールサイドのわたしにも自己防衛が必要だった。わたしは(心のなかでではあるが)皆に対してこう反論した。あんたがたは思考停止している。自分の頭で考えないで、なんでもかんでも神さま任せだ。人間的な思いにとらわれるなだと?おれは人間だっつーの。お前ら人間じゃないのかよ。
しかし牧師の仕事を重ねるうちに、少しずつ分かって来たことがある。昨日の「仕方ない」の話に通じるが、牧師の仕事をしていると、いくら考えてもどうにもならない、わたしの手の届かないことがいくらでも出てくる。最も代表的なことは「人は死ぬ」ということ。元気だった人が病に倒れ、弱ってゆき、死ぬ。もちろん医療の手は尽くされる。それでも、死ぬ。
死因については医学的な知見によって解明される。そういう意味での「なぜ死んだのか」は分かる。だが、「なぜこの人はその死因によって、今このときに死ななければならなかったのか?」は、いくら考えても絶対に分からない。その究極の「なぜ?」に対する答えは、わたしもいずれ死んだら分かるだろうという具合で、もう神さま任せにしてしまうしかないのである。
死だけではない。教会は人間の集まる場所だから、時に人間同士の争いも起こる。「信仰者同士なのに醜い」と眉を顰める人もいる。しかし信仰はそれぞれの人にとって生きることそのものだ。だから「はいそうですか」とあっさり相手に譲歩することなどできない。信仰者どうしなのに争うのではなく、信仰者同士だから争うのである。信仰のテーマだけに限らない。親子の対立。夫婦の不和。教会運営をめぐって。どこの教会であれ、なんらかの争いの種をめぐって日々格闘しているものである。
では、人間同士どうしても埋められない溝が生じたとき。どうしたら和解や一致に至ることができるのか。これも、わたしが和解や一致に至らせることは不可能である。生きることを賭けてのお互いに譲歩できない争いを、説得や対話でどうこうはできない。双方が納得できる何かが訪れる、その時が来るまで待つしかない。では双方が納得できる、いったい何が訪れるというのか?そしてその時はいつ来るのか?これらもまた、すべて神さま任せである。
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