憎悪から生き延びるために
「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」 マタイによる福音書 5:44 以下、引用はいずれも新共同訳
それにしても、なぜイエスは
「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39)
などと言うのだろう。聖書には、たとえば
「苦難の中にいるわたしを嘲笑う者が/共に恥と嘲りを受け/わたしに対して尊大にふるまう者が/恥と辱めを衣としますように。」( 詩編 35:26)
というような、敵を呪うとまでは言わないにせよ、報復を受けるべく願う祈りもある。それに律法のなかには有名な、
もし、その他の損傷があるならば、命には命、 24目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。(出エジプト記21:23-24)
というような記述もある。イエスはこれらの伝統を破壊したかったのか。
わたしは、イエスは怒りを否定しようとしたのではないと思う。イエス自身、聖書によれば、怒っている場面が何度かある。それにイエスは左の頬を「笑顔で」向けなさいとは言っていない。わたしは思うのだが、憎悪に対して憎悪で立ち向かわないことには、イエスからの「生き残るための教え」といったものが含まれていると思う。
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