「神の息遣い」ペンテコステのおはなし
'「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 'ヨハネによる福音書 14:15-27 新共同訳
ペンテコステは、イエスが天に昇ったあと、残された弟子たちが祈るなかで聖霊が降り、さまざまな国の言葉で福音を語りだした出来事です。世界への福音宣教の始まりです。それはイエスを直接知る弟子たちから、イエスと直接会ったことのない人々へと、福音が広がり始めた出来事でもありました。いわば、こんにちの教会の始まりです。
イエスは次のように語ります。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」。
聖霊は弁護者であると、イエスは語ります。弁護士のことを思い浮かべてみてください。裁判で被告になった人や法的なトラブルに巻き込まれた人は、冷静に自分を振り返ることなどできる状態にはありません。自分一人で自分のことを説明できるほど言葉巧みでもないし、法律に通じてもいません。そうした苦境にある人の思いを、代わって適切な言葉で表してくれるのが弁護士です。しかし弁護士は依頼者を差し置いて自分勝手に話すのではありません。誠実な弁護士は依頼者の苦しみに寄り添い、そのたどたどしい証言を手掛かりに、法的に説得力のある言葉を紡ぎます。
今、わたしたちの目の前にイエスはいません。それはペンテコステのとき、使徒たちの目の前にイエスがいなかったのと同じです。このとき、使徒たちの知恵や経験だけでは語り切れなくても、聖霊が語るべき言葉を示してくれたのです。だから使徒たちはイエスがそこにいなくても、イエスの出来事を力強く証言できたのです。かといって、聖霊は使徒たちを無視して勝手に話をするのではない。語るのはあくまで使徒たち自身でした。ヨハネによる福音書が成立した頃も、教会は苦境にありました。自分たちはなぜイエスを信じているのか、それをどうやったらうまく人々に伝えられるのか。どうして自分たちの信仰はまったく理解されず、受け容れられないのか...彼らも悩みながら言葉を紡いでいました。
それはわたしたちも同じです。わたしたちは、頼りになる弁護士のような聖霊を信頼しています。わたしたちにゆっくり考える余裕がないときこそ、聖霊はわたしたちに語るべきこと、なすべきことを教えてくれます。ですから、わたしたちが信仰について雄弁に語る自信がなくても、その言葉が拙くても、大丈夫なのです。弁護者である聖霊は、姿の見えないイエスに代わって福音をわたしたちに伝えてくれます。そして聖霊は、こんどはその伝えられたものを、他の人に表現する方法を示してくれるのです。だからわたしたちは聖霊の働きに安心して、自分の言葉で、自分の行為で、イエス・キリストの福音を証しすることができるのです。
ところで弁護士が依頼者に寄り添うとき、弁護士は素人ではなくて、資格を持った専門家であるという根拠(資格という権威づけ)があります。わたしたちは誰でもいいから頼んでいるのではなくて、専門家に依頼しているのです。聖霊は、なんとなく漂っている素人魂なのではありません。聖霊はイエス・キリストの言葉や約束という資格をもって、あなたに寄り添うのです。
聖霊は風や息に譬えられます。あなたは言葉を発するときに息を吐きだしますし、何かを行うときにも息はしていますね。そのあなたの息遣いと共に、聖霊の風はいつも吹いているのです。イエスが言うように、聖霊の与え方は世の与え方とは違います。「これがあれば安心」というモノ(物体)をくれるのではなくて、なんと、神の息遣いそのものをくれるのですから!
だからわたしたちは、心を騒がせる必要も、おびえる必要もないのです。
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生きること、死ぬこと、そのむこう
牧師として、人の生死や生きづらさの問題について、できるだけ無宗教の人とも分かちあえるようなエッセーを書いています。一度ご購入頂きますと、過…
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