告発と美化のはざま

8月15日に、靖国神社と千鳥ヶ淵霊園へフィールドワークに行ったことは先日の記事で書いた。それからずっと考えている、というより、そもそもフィールドワークに行った目的自体がそうだったのだが、それは死の物語化の問題である。死の美化の問題といってもいい。

以前わたしは高橋哲哉『記憶のエチカ  戦争・哲学・アウシュヴィッツ』を読み、強い感銘を受けた。記憶とは物語ることである。それはたんに、映像がないから言葉で物語るしかないという意味ではない。仮に記憶が映画化されたとしても、その映画作品もまた物語である。歴史も、歴史家が史料から厳密さと客観性を保持しつつ研究を重ねたとしても、そこから語り出される歴史は、研究者という主体による語りであることは免れない。

高橋は『シンドラーのリスト』と『ショア』を比較する。スピルバーグによる『シンドラーのリスト』は興行的に大きな成功を収めた映画であるが、そのハッピーエンド的な(ハッピーではないにせよ、なんらかの納得ゆく結論がある)作りに、高橋は疑問を呈する。そのようなすっきり納得のいく物語は彼らの傷、痛みを隠蔽するのではないかと。そして高橋はクロード・ランズマン監督の長編映画『ショア』を挙げる。ちなみにショアは、かつてホロコーストと呼ばれていた。しかしホロコーストが燔祭、つまり祭儀的な意味付けをされていたことに対して、疑義が呈された。そして「惨事」を意味するヘブライ語、ショアという語が使われるようになったのである。

高橋は『ショア』における、ナチスによる虐殺を生き延びた当事者たちの声を高く評価する。それらの声は断片的で、しばしばショアというテーマから逸脱し、語るのを断念して沈黙してしまうことさえある。当事者から滲み出る語り得ないもの。その重みこそが物語化/美化され得ぬ、答えのない惨劇のありさまである。

わたしはウィキペディアの解説に従って、惨-と書いた。悲惨でもよかったのだが、惨劇という語を踏襲させてもらった。人が何かを語る際の、劇的な要素を無視することができなかったからである。これもまた映画の話になるが、ヴィム・ヴェンダースによる『ベルリン ・天使の詩』という作品がある。天使たちが永遠の座から降りて人間となり、限りある命に生きる喜びを物語る。そう、「物語る」行為がこの映画では可視化されている。映画の要所要所に、老いて盲目のホメーロスが登場する。彼は歴史を叙述するのである。ドイツ語で歴史を表すgeschichteは、出来事や歴史を表すと同時に、物語をも意味している。その二面性をドイツの映画『ベルリン・天使の詩』は見事に表している。人は物語ることを抜きにして、おのれの体験や歴史を語ることができるだろうか。

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