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観劇メモ:『マドモアゼル・モーツァルト』

マドモアゼル・モーツァルトを観てきました。

もう見てから何日も過ぎているし、千秋楽すらもとっくに終わっているというのに、未だにふとあの舞台の場面が脳によぎります。白日夢のようで、でも手触りがしっかりと残っている、そんな感じ。


あらすじを公式より

天賦の音楽の才能を持って生まれた少女エリーザは、女性が音楽家になれなかった時代ゆえに、父レオポルトから男の子“ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト”として育てられた。モーツァルトは瞬く間に時代の寵児として宮廷でもてはやされるようになる。宮廷作曲家であるサリエリはモーツァルトの音楽に否定的だったが、一方で目をそらせない存在でもあった。

モーツァルトが下宿しているウェーバー家の母親は、彼の成功にあやかろうと娘のコンスタンツェと彼を無理矢理結婚させようとするが――。


開幕直後の、コンスタンツェの歌につられるようにして涙が流れました。のっけから大きな感情に巻き込まれて、そのまま最後まで連れていかれた感じ。

原作の漫画、および既に数回上演された音楽座さんの舞台は存じ上げません。事前知識はこのあらすじ程度、あとはモーツァルトの代表曲および「コンスタンツェといえば世界三大悪妻だよね」という音楽史+雑学くらいです。でも、まったく差し支えず、ひたすら新鮮に楽しめました。


円盤化は難しそうな気配ですので、ちまりと感想を残します。結局2回しか見られていないため間違っていることが多々あるかも。そしてひたすらにダラダラとキャストごとの感想を書いています。


明日海さんが演じるエリーザ/モーツァルト。
どこまでも音楽を愛し、信じ、音楽に生きているように見えました。コンスタンツェに愛する者を尋ねられて音楽と即答し、自身が紡ぐ素晴らしい音楽さえあれば皆を幸せにできると、まっすぐに信じているんだろうな、と感じるほどに。途中、揺らぐことがあっても、けれども音楽を愛し抜ける人。

他者から寄せられる感情に無頓着である様すら憎めず、音楽によってすり減っていく姿は可哀想を超えてどこまでも美しかったです。精霊たちにリフトされステージを無尽に動き回る姿。あまりにもガシガシ持ち上げられるので、「体幹、どうなってるん??」という現実にうっかり立ち返ったりしましたが、夢幻の世界を見せられている、そんな印象。

エリザガラコンで申し訳なくも「男役として喉を鍛えて間もない今、女性としてのミュージカル歌は難しいのかもしれない」と思ってしまったのですが(本当にすみません……)、そんなことは今回の上演中、少しもよぎりませんでした。オペラ歌手のような自身が楽器になるような声、とは違いますが、モーツァルト/エリーザとして生きる彼女の声として、素直に受け止められる歌声。声の響きが美しかった。

彼女の性自認について。コンスタンツェに男性として恋され求められ、その母の策略もあって結婚を決めた時。父の死を受け、エリーザになってみた時。いずれに対しても、モーツァルト/エリーザに深刻に悩んだ後を感じられませんでした(その早まった決断によって、後になってようやく悩みを抱えた、風)。パンフレットに「ノンバイナリー」と表現がされているのを見て、なるほど、と腹落ち。むしろ、アセクシャルなのかな、とも。

2幕の、サリエリの演奏会にエリーザとして行った後。彼女が「普通にエリーザという一人の女性として生きたのなら」という気持ちが乗せられた歌の場面がありました。が、少なくとも明日海さんが演じる彼女は、この時の自身の思いを知ったところで、やっぱりその道は選ばないだろうな、と、そんな風にも思うのです。モーツァルトとして多くの人に音楽の素晴らしさを伝えることを知ってしまった彼女だから。

人との結びつきが前提にある社会のくびきから、精神的に自由であれること。空気を読まずに立ち続けることが、そのまま音楽的才能に繋がっているよう。そこが個人的にはとても納得できたような気がします。天才というものは、かくあるものかもしれない、という意味で。


対極にいるのが、サリエリであり、コンスタンツェ。

サリエリは、「天才」というより「秀才」、他者と音楽以外でも関わり生きることができる社会的な存在で、身体の大きさや声の太さ、対異性とのあり方などが実に対比的。

モーツァルト/エリーザと関わったところから、こじれていくさまがまた素敵で、あーーー、大人の男がこうグダグダなるの最高ですね。カテリーナという存在に対する粗雑さ(相手の思いなど少しもくみ取らない)、溢れる色気。からの、急に純朴に「初恋を知りました!!」という感じ。自分の在り方に疑問を持ったことなど、モーツァルトへの感情を抱くまで一度もなかったんだろうな。

「出ていけ!……行かないでくれっ!!」が凄く凄く良かったです。二人の人物を脳内で早々に結び付けていながら、けれどそれを認めたがらない。そして最終的に、最後の場面でモーツァルトの真の姿をフランツが知ることのないよう、守る。そしてモーツァルトとして逝く彼女を、モーツァルトとして見送る。図らずも彼女がパパと称したように、彼女の音楽を真に理解し、音楽ごと愛したのだろうなぁ、と想像してしまいます。秀才でありながら、ひとりの素晴らしい才ある音楽家である彼だったからこそ、こんなこじれた愛情をもったのだろうなぁ、とも。

そんな風に奥行きのある感情が、しかも少しずつ変化するさまを、セリフだけではなく、表情、声音、立ち姿からも伝えてきていらして、いやぁ好きです。



一方で、コンスタンツェは、「普通の女」の代表なんだろうな。

高名で人気がある人の、誰よりもそば近くでダメなところも見ている。それでも憧れ、恋をし、母の強すぎるアシストもあってその恋が叶う。彼女が「彼」との恋の先に夢見ていたのはごくごく普通の結婚であり、夫の仕事を家庭を整えることによって支え、子を産んで育てるようなものだったのでしょう。エリーザがモーツァルトにならなければ、歩んだかもしれない姿のひとつ。

けれどそんな彼女がごく当たり前に得られると信じていた未来は、浮気などよりもどうにもならない形で、はじまりの瞬間から裏切られていた。

飛び出した彼女は、「行くところがない」と戻ってきたけれど、その頃には恋ではなく、もう愛があったんだろうなと考える。だって「離婚ができない」というのが宗教的・時代的背景としてあったにせよ、モーツァルトという有名人のスキャンダルが原因だ。これを明らかにすれば、結婚を無効にすることくらいはできただろうから。少なくとも母に話し、母が娘の結婚を噂話だったりの力技で形にしたように、スピーカーとなってその嘘を喧伝したなら。コンスタンツェ側に非のない形で結婚を無効とし、実家に帰ることはできただろう。その後、彼女が望むような結婚はできなかったかもしれないけれど、でも「行くところ」くらいは作れたように思う。けれどそれをしなかった。ごく普通の女であった彼女がそうした意味を、やっぱり考えずにはいられない。

それ以降、彼女は「モーツァルト」であり続ける人を自己を犠牲にし支えた。それなのにもう一度裏切られる。彼女が夢見た未来を諦めてともに歩んでいたはずの相手が、突然女に戻るなどというのだから。これまでの時間や犠牲を踏みにじられるような痛み、戸惑い、怒りを、モーツァルト/エリーザがちっとも理解していない感じが、本当にこの二人の心の在り方の差を示しているなぁ、としみじみと面白かったです。

音楽に対してモーツァルト/エリーザが自由であるために、コンスタンツェの求める恋や愛に対し自由を与える(コンスタンツェが真に求めるものとは一致しないけれど)。そうやってふたりともに片方の手を他の存在と繋ぎながら、けれど二人で繋いだ手を決して離さない。男でも女でもなく、恋愛でもなく、そこにあるのは情で、その情は他の感情よりもずっと深いものなのだ、と感じさせるお二人の演技が本当に良かった。

最後の場面、「モーツァルト」として死んだ人に、フランツが触れることを拒否する姿。最初の場面をリピートして演じられるその場が、とても意味深いなぁ、と思います。嘘が明らかになり家を飛び出した時同様、コンスタンツェはフランツにモーツァルトの抱える秘密を話すという選択肢もあったはず。なぜフランツと恋しているのに、モーツァルトの元へいつづけるのか。フランツに説明することはできたように思う。その秘密を共有しながら、愛を育むことだってできただろう。けれど、それを亡くなってなお、しない。彼女が「あなたの音楽、大好き」となったからなのだろうな、と思う。モーツァルトという存在を守ろうと、それがコンスタンツェにとっても重要で大切なことだったのだろうな、と。そこに溢れる圧倒的な感情に飲み込まれるようでした。

自分がごく普通の人間なので、とにかくコンスタンツェに感情移入しがちでした。あと全然関係ないんですが、わたし、華さんの眉毛の動きがすごく好きだと気づきました。苦悩も、喜びも、悲しみも、すんごい伝わってくる。表情筋がとても活動的。SUKI……。


コンスタンツェに対をなす存在が、カテリーナ。

女であることを武器にし、美しくゴージャス、セクシーで誇り高い。仕事も一見華やか。平凡なコンスタンツェとは大きく異なる女。ひとりの時にしかその本心を表に出さず、感情的にモーツァルトと言い争うコンスタンツェとは、その点においても大きく違う存在。

でも根っこの部分にごく普通の「女の子」というところを持っていて、そこが似ている。可愛くて、可哀想で、抱きしめたくなるような姿が本当に素敵だった。

サリエリを愛したがために簡単に傷つけられ、でもそれを決してサリエリに見せることのないまま去る、最後のその瞬間まで気高い様子を見事に表現してらしたなぁとしみじみ思う。恐らくモーツァルト/エリーザの正体に勘付いていただろうに、そのカードを使うことのなかった彼女。本当に気高くて美しい人だったな。


シカネーダーは嵐みたいだった。

そこに流れていた空気がガラッと変わる感じ。彼だけ色の彩度が違っていて、踊ったり歌ったりするうち、周囲にその色を伝染させていくよう。力強さと優しさが深い。

ミュージカルのダンス、あるいは歌とはまた違うのかもしれない、とも思いました。けど、それはいい意味で馴染み過ぎないことにより、登場だけで空気を変える感じがお見事でした。

モーツァルトが文字通り命を賭けて音楽に向き合う姿を目にし、それを止めたいと動くコンスタンツェを止める。それが他の誰でもなく、モーツァルトのためにやっているのだと思わせる優しさが見える感じ。だから、その腕の中でモーツァルトが息絶えるのも、納得のシーンだった。


フランツ。

メインキャストの中では私にとっては印象が薄かったです。どこまでも優しく、苦悩し、そして影の存在だからだなぁ、というのがわたしにとってのフランツ。ただ、影がなくば光は際立たなく、そういう役回りをまっとうなされていたのだな、と思っています。

コンスタンツェと恋に落ちる相手がフランツであることへの説得力は十分でした。そしてシルエットのシーンが本当に美しかったです……。あと中の人のお話をしてしまうのですが、お衣装がめちゃくちゃお似合いでした。もっと強いお役で歌ったり動いたりしているところを拝見したい。というか、お歌を聴きたい。


レオポルト父さん。

エリーザの才を誰よりも先に見出し、それが「女だから」と世に出ないことを惜しみ、「モーツァルト」をプロデュースする。世を見返す云々の言葉はあったにせよ、自分のためだけにやったことではなかったんだろうな。だからこそ、モーツァルトは父を愛したんだろうなぁ、と思わせられました。

サリエリがパパ呼びされたことからしても、「モーツァルト」が自身の音楽の最大の理解者として信頼し、愛したのはレオポルト(モーツァルト/エリーザと両面になった場合はコンスタンツェ)なんだろうな、と。その思いは一方通行ではなかったことが、ドン・ジョヴァンニでモーツァルトの代わりに地獄へと落ちゆく姿で想像できる。だからこそ、エリーザの男装が「可哀想」に見えないのだよな、と思いました。

登場のシーンとしては決して多くはないはずなのに、印象がとても強い。運命の流れを変えた存在として、とても心にのこっています。


コンスタンツェのお母さん。

あらすじで「成功にあやかろうと」結婚させようとした、とあるけれど、なんとなく本作の母は、娘のためになるし!というのも大きな理由であったような印象を受けました。

いや、めっちゃしたたかな感じもあるんだけど!誰よりも現実を生きている感があるのだけれど!!だってみんなどっか夢見心地なのだもの(ダ・ポンテさんとシカネーダーさんを除く)。つまり、それが庶民的ってことなのかな。

あと中の人のお話なんですけど、歌が凄くパワフルで素敵……。セリフの声も良くて、いらっしゃるとつい耳が引っ張られました。


アンサンブルの皆さん、を、じっくり解析しきれなかったのが心残り……!美しくて、シンプルなセットの中でその存在感が際立っていて、おひとりずつ見たかったのに!!という気持ち。

あとコーラスの美しさが凄い。声の重なりが綺麗で、BGMにしてずっと聞いていたいので音源をください。あああ本当に心残り。音楽そのものも、小室サウンド育ちだからか(笑)とても耳なじみがよくてですね、全曲配信とか無理ですかね?聴きたい。

ダ・ポンテさんとか、ナンネルさんとか、人としてのお役を演じられているシーンも素敵なのだけれど、ふとしたシーンで演じられている動きの美しさが、この世ならざる者感で良すぎて、ああ。


舞台セットが、また良かったです。

無機質でシンプル過ぎるような舞台なのに、そこにライトが入り、人が演じると途端に奥行きのある場面に見える不思議! 現代的な打ちっぱなしのコンクリートのような雰囲気でも、クラシカルな衣装が浮き立たず馴染んで見えるのも、また不思議でした。浮かび上がる演者のシルエットまでもが計算され尽くしていたのでしょうか、印象的です。

存在感があるキャストさんが多く、ステージが広すぎて見えることがなかったのもまた、組合せ的に最良だった気がします。室内のシーンが多いからこそ成立しやすい面もあるのでしょうが、ツクリモノ感を感じるすき間がなくて好みでした。


圧倒される、というよりも、こことは異なる世界にふわり、と連れていかれたような、そんな舞台でした。映像化が難しいのであれば、地方公演、あるいはいつかの再演が叶いますよう、心から願っています。