配信観劇メモ:雪組『ほんものの魔法使』
まだパンフが手元に届いていない(友人宅)ので、記憶で書きます。たぶん、KAATで観劇後にまた書きそうですが。あとネタバレしています。
前半に作品に対しての感想、後半に一部の方のお役についての感想です。
「ファミリー・ミュージカル」感
小さなお子さんから大人まで、一緒に見て、それぞれに好きなものを見つけて楽しむことができそうな、いい意味での「ファミリー・ミュージカル」感。色彩豊かなステージ上、賑やかに歌い踊るいきものやマシンたち、魔術師たちの「魔法」の数々は子どもを魅了するだろう。『不思議の国のアリス』だったり、『チャーリーとチョコレート工場』だったりと同様、寓話的なストーリーは、大人たちの心に何かを残すだろう。って印象。
これ、外部でもやってくれないかな。「宝塚」を見に来たのではないお客さんがどう受け止められるのか、が見てみたい。そしてその評価を受けて、改めてこのキャスト版を見てみたい。Blu-rayで!(祝!!)
という、圧倒的に楽しんだ勢のわたしです。
どうせだったら原作未読でどう受け止めたか、っていうのも試せばよかったな。もの凄くうまく各エピソードをまとめてくれていただけに。
その他、気になったテーマ?的な部分の感想戦。
女だから、という呪い
女だからそうするのは当たり前で、女だからそうすることは許されない。
ジェインは自身も魔術師になりたくて、けれど女に生まれたがために、それは決して許されない。女は魔術師ではなく、脚を出して魔術師の隣にアシスタントとして立つ以外に道はない。父権が強い閉鎖的な街の中で、彼女の父はこの街を代表する人物だ。となれば、なおのこと彼女が「街の常識」から外れることは不可能に等しい。
鬱屈した思いを抱えた少女は、男であるが故に彼女が望むことを許される兄に嫉妬する。兄に何かをされるたび反抗をし、仕掛けたのが向こうでも彼女だけが叱られ、閉じ込められ、説教をされる。それは、決して娘憎しでやっている訳ではないのだろう。この街らしからぬ娘のありようを矯正せねば、と、父としての愛ゆえに考えた結果なのだろう。
というようなことを、そういえば星組ロミジュリを見ていた時にも考えていたんだった。16歳の娘を持つ父が、娘のためを思って流した涙を見ながら(まぁ、その割に、娘の部屋の真下でネーチャンとイチャコラしてたけど)。
女の子として自分はハズレだ、と嘆く彼女に、外からやってきてこの街の常識を知らないからこそ、アダムは「ハズレの女の子なんていない」と言える。
3年後のジェインの服装は、メルヒェンみのある16歳当時とも、母の着ていた時代がかったものとも違っていて、シンプルなパンツルック。初登場時、16歳にしては幼過ぎるところのあった彼女は(原作に引きずられたような気もするけれど)、ひどく落ち着いていて、そして兄と和解している。
兄もまた呪いを受けた子どもだった、ということを理解したということなのだろうけれど。親世代が魔術師であることを放棄して、ようやく呪いに気づけたんだろうなぁ。ジェインといい、ピーターといい、自分では呪いの存在にすら気づけていなかっただろうあたりが、実に現実的。できるならば、兄側こそがジェインへ歩み寄っていて欲しい。
というような話を、女性だけが演じる宝塚という舞台で取り上げることについて、なんだか考え込んでしまった。ある意味で彼女たちはそこ(「女だから」)から自由になれているし、ものすごく囚われてもいるよなぁ(主役が男役であることなど)。
そういえばTwitterで、雄鶏を娘役さんが、雌牛を男役さんが演じている、っていうのを見かけて、うわーー、そういえばそうだった!って思い返している。そこにも意味があるのかな、などと考えてしまうな。
魔術師たちへ共感してしまうこと
ぎゅっとまとめて、2時間に落とし込むには要素が多い原作。物語の核のひとつとなる、マジェイアの魔術師たちにとっての「魔術」と、アダムにとってのソレが違う、というのをどう表現するんだろう?と思っていたら、魔術師たちが自分たちのそれを「手品」とすんなり言葉に乗せて表現していて、なるほど!となった。
自分たちを脅かす存在、タネも仕掛けもないアダムの魔術によって、自分たちの大切な「魔術」がニセモノにされてしまうことを感じ取った魔術師たち。自分たちを守るために、彼を物理的に排除することを決める。怯えだとか、疑心暗鬼だとか、そういうことを感じられるのは、彼らが大人だからこそだよな、と思う。
いやー、でも、わかるもんな、大人たちの行動判断。地位も名誉も財産も、なにもかもを一気に奪うかもしれない一人の存在。その一人さえいなければ、自分たちは安泰。どんなに醜くとも、彼らの行動はやっぱり理解できてしまう。だってそれが彼らの正義だから。あの街の中でアダムに味方できる人は、大人たちにないがしろにされてきたジェインとニニアンだけ、っていうのが凄く理解できてしまう構造。
この、理解できちゃうよなー、というのがなんとも胸が痛い。孤独について歌うアダムの歌、去り際の悲しみと薄っすらと蔑みとがにじむ表情。あんなまっすぐさに、羨ましくも恐怖に思えてしまう側の方がわたしには近しいんだよな、という。そしてアダムのまっすぐさは、他者との関係が希薄が故にいつまでも濁ることなく、歪むことなく続くんだろうな。ピーター・パンみあるなぁ。
ひとりの人間を魔女裁判にかけるようなことをしてまで、守りたかった自分たちの仕事、自分たちの魔術。けれど、彼らが本当に欲しているものを看破したアダムにより与えられた大量の金貨で、それらを放棄してしまう、ってところも、なんともなぁ。実に寓話的。
以下、お役に対する感想。
アダム役:朝美絢
しみじみと、感情を伝える目と声だなぁと思う。配信だとそれが十全に伝わってくるからいいですねぇ。
故郷でも異端であったろうし、だからこそマジェイアに来てキラキラと瞳を輝かせたアダム。親切で、公正で、でも他人が必ずしもそうではないということに対して鈍感なアダム。
魔法が使えるからこそ、世界は不思議だらけだと感じることができるアダム。それがわかっている時点で、「普通の人たち」という規範から完全にはみ出してしまっている。ひとりだけ違う種類のパズルのピーズが混ざってしまったような、そんな存在。
アダムってひとり立つ時の表情の引き出しが少なくて、ともすればただ笑みを浮かべてそこにたたずむだけの人になってしまう。派手に感情を表す周囲の人と比べれば、あまり感情的にもならない。
その分、目と声の演技からの情報が、実のところ多かった気がする。笑顔でいても悲しんでいたり、笑顔でいても怒っていたり、といった感じ。大げさではなく表現されたそれらの情報を、もしかしたら受け取れたんではないか?と、そんな風に思うことができるお芝居でした。
あと、顔面。朝美さんのお顔はキラッキラして美しいな、と思うのだけれど、基本的に演技をされている場面では、そこまで「顔」に意識が向いていない。もの凄く主張が強いはずのお顔で、でも役に馴染み、役として生きている感がちゃんとある。今回についていえば、アダムという、浮世離れした魔術師たちの中に馴染むことなく、どこか浮いた存在が表情や声にあらわれている感じ。
圧倒的で個性的なビジュアルを持ちながら、型の演技をする人なのかな、という印象を『fff』で感じたのだけれど(ゲルハルトが、何回観ても常に同じゲルハルトだった)、もっと憑依型の人なのかなぁ、という印象。これから先、色んなお役を見てみたい。とりあえずミック・エンジェルが楽しみです。
ショー部分。完全に「これが朝美絢か……!」って気持ちになりました。キラッキラ。あの「こっちを見ろ!」感はひれ伏さずにはいられない。踊りが上手い、というより、動きが綺麗だなぁとしみじみ見入る。
あとゲルハルト早着替えでも思ったんですけど、朝美さん、たぶん本当に魔法使えると思う。おかしくないです?ショーまでのあの拍手の間に早着替え済ませて板付きで出てくるって。おかしいですよ。時を止める魔法を使っていらっしゃいます。
モプシー役:縣千
わたしの周囲の観劇組&配信観劇組、見た後に「モプシー!!」しか言ってこない。わかります、わかります。
アダムが受け身で動かず、感情があまり出ないキャラクターな分、それを補うように縦横無尽に動き回るし、感情にまっすぐ素直だし、すごくかわいい。興味のあることとないことの差が明確に声と態度で出ている。見えないはずのしっぽが見えるほどに、正しく犬。そして可愛い。可愛いしか言ってないな、おい。
感情を出さない役と同じくらい、感情的に動きつづけるお役って難しいと思うのに、可愛いな、と思いながら共感ができる縣さんの演技力凄いですよね……。なんかもう、なんでもできそう。そりゃ海坊主ふられるわ。
配信で、モプシー需要をわかっているんだろうな、という感じで画面の端にチラチラ映っていて、どこも気を抜かずに犬かわいい。異質故に孤独なアダムの隣にいる相棒がモプシーで良かったな、と、しみじみどこの立場からかわからない感情が芽生えた。モプシーがいなければ、アダムはとっくに世界を諦めていただろうな、だとか、モプシーが人であったなら、アダムはとっくに変質していただろうな、だとか、そんな想像の余地のあるモプシーで良かった。
アダムが最後に周囲の時間を止めている時、に、モプシーが動けているところを見ると、モプシーも普通の犬じゃないんだろうな。そうであって欲しい、永遠に二人で楽しく旅をしていて欲しい。だってかわいいしかっこいいし可愛いよあの犬。おかあさん、あの子を買って(飼って)。視覚的には大型犬だったけど、脚の下を通って逃げ出せるくらいだから、たぶん原作と同じ小型犬だと思うので!で!!欲しい!!
のに、ショーになった途端「あれ誰ですか」って本気でなる男ぶりよ。凛々しく、たくましく、ハンサム。なんだろうな、同じ顔のはずなのにな。あまりにあまりにもで、黒燕尾のシーン、つい縣さんにフォーカスして観てしまった。もっと全員がみたかったのにぃ。
ジェイン役:野々花ひまり
思春期、というには幼く(それは原作の設定に引きずられた演出かな、とも思われれる)、そこだけが妙に尖って、アダム以上に場に収まらない感じで物語がはじまった、という感想。『fff』で幼ルイもまた、幼く、妙に尖っていて、馴染まない感じがあったのだけれど、もしかしてそういう演技の人なのかな、と。
けれどアダムをきっかけに世界への扉に手をかけたことで、彼女が変化し、成長し、特にモプシーと一緒にいるときに安らいだ表情を見せていくまでを見て、「あ、演技だったのか!」と知って、ほぇーとなりました。そうして思い返せば、否定され続けた子どもの感情表現として、あの尖り感は納得できる。ほぇー。
デュエダンの時の、少し寂し気なうつむき、からの後ろから抱きしめるアダム(でいいんだよね、たぶん)にハッとする表情の変化がすごくキュートでした。
他の方については、KAATで見てから(そしてパンフを回収してから)まとめたいです。あー、すっごい楽しんだな……。