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『夢現の先に』 観劇感想

バウ・ドリーミング 『夢現(ゆめうつつ)の先に』
一度は消えたチケットでしたが、友人のおかげで2公演、実際に見ることができました!
ありがとうございまする!!!

見に行って良かった、この感じ、この座組だから可能にするこの感じ!
公演が再開し、そして追加公演することができ、本当に良かったです。
残念ながら見られなかった方も、配信が見られていますように……。



タイトル、そして「主な配役」の役名を見てのイメージは、例えば村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』だったのだけれど、2回観劇した後、改めてそれに近しいものはあったな、という感想です。

並行して描かれるふたつの世界。
その相関関係と、世界に隠された意味が明かされていく、という展開。
うん、『世界の終わり~』っぽい。
けど、なんというか、あの内省的で男性的な世界観を、女性たちが多く見るだろう舞台エンターテインメントに置換・昇華するとこうなるよ!という感じで、おもしろっっっ!!!ってなりました。
(いや、『世界の終わり~』も、わりとエンタメ感がある小説ではあるんですが、春樹のそれ以前の作風と比べれば断然)
面白かったです、そしてあのラストシーンの別れの決意に泣かされました。


以下、ネタバレしています。
というか、これを読まれる方は既に見た事がある方、という前提の感想を書き散らします。
「物語の前後」や「行間」を読みたくなる舞台を見ると、とたんにその部分についての感想を書きたくなる性質なもので、その部分ばかり。


二幕で「夢の世界」、そして「彼」についての種明かしをされて、すべてが繋がっていくあのカタルシス。
その「終わり」を後押しする存在たちのいとけなさと、だからこその純粋な思い。
これで泣けない訳ないでしょ?!とばかりに泣きました、ズルい。

マチソワという幸運だったので、種明かし直後に振り返りつつ見ることができたのだけれど、なるほど、と思う伏線があちこちに張り巡らされていたなと思います。

例えば夢の中の「彼」が、名を呼ぶ羊はメロ、最初に彼が名付けた子ばかり。
あとは「羊ちゃんたち」。
最初からの友達で、現実世界の中で生きていた頃のバルウィンを知るからこそ、メロが誰よりも先に「ご主人の夢は世界一!」と唱えながらも、「ご主人が『僕』に花を渡した意味を考え」、外の世界に出ることを望み始めたご主人を止めるのをやめ、そして外の世界に導こうとしたんだなー、とそんな背景を読み取ってしまう。
「ご主人が楽しいのがいちばん!」で、その楽しさはこの夢の中以外にもあることを知っているからこそ背中を押せたんだな、と。
次のお友達、メルとメラを演じているのが彼の父と彼の母を演じる二人でもあるのは、メタ的に言えば単純に場面的理由もあるだろうけれど、それ以上に彼の母の、彼のそばに自分たちが寄り添いたいという願いの反映なのかなー、などとも思います。

外から呼びかける声を、羊たちが嫌なものとして受け止めているのが面白い。
羊を与えているのは、ほかならぬその声の主であろう母なのにね。
現実への恐れを、「彼」は気にしていないように見せながら、でも彼の意識が分け与えられた存在であろう羊たちは不快なものとして見せてくる。
独立した存在ではない、と思わせつつ、でもメロはそこ(「彼」の意識)から飛び出すことさえできるのが、うう、メロ、メロぉ……(泣)


バルウィンが夢から覚めた後、どれだけのことを覚えているんだろうか。
マーガレットを見つけ、知り、そしてそれをアベルに託した彼だから、多くのことを覚えていてほしい、けれどどうなんだろうか。
メロは、きっと言葉のやり取りすることはできなくても、今後もずっと「友達」であり続けるだろうけれど、他の子たちはどうなんだろうか。
忘れてほしくないけれど、現実を生きるためにはどうしたって忘れることも必要で。
あんなにも優しくて、彼のためだけにあった世界がもうないなんてこと、残酷に過ぎる。
でも、アベルはいるから、アベルは絶対ずっといてくれるから大丈夫だ。

もしアベルのことごと忘れたとしても、きっとアベルは回復のために病院に滞在するバルウィンの元に通ってくれる。
自身がバルウィンに夢で助けられたこと、そして素敵な友達であった羊たちのこと、のんびりと過ごす丘の楽しさ、さらに夢に自ら囚われていく彼の背中を押した存在のことを、残さず話してくれるでしょう。
互いが、自分を捕らえて離さなかった(手離せなかった)「夢」を終わらせてくれた大切な存在だから。
それが簡単に予想できるから、アベルはヒーローだし、バルウィンはヒロインです(なんだそれ)。


明晰夢はPTSDを癒すことができる、という研究の成果を見た事がある。
でもバルウィンは明晰夢の中にいるがため、そこから出られなくなっているのが印象的でした。
アベルが、「彼」の導きで夢見ることを恐れなくなり、エマの存在もあってどんどんと彼をPTSDから解放していった(捕われ衣装の軽量化)のに対し、「彼」、バルウィンは重たくなっていく。
現実への憧れが強まると共に、最後に吐露するそのことに対する恐れ、怖さが増していく。
衣装の重さがすべて自我によるものだ、というのがよくわかる対比表現。
はー、もう天才。好き。


現状で自分の中で解釈が未消化で気になっているのが、アベルが夢の中で「彼」に「黒いの」と呼ばれる理由。
なんで「黒いの」なんだろう。

※追記:私より回数を見た友人曰く、「暗いの」だそうです。
 なのでモヤモヤ悩んだけれど、単純にずーーーーんっと暗く停滞している 
 から「暗いの」って呼んでただけっぽいです。
 以上、追記おわり。

「そうだと解釈がスムーズだな」というだけの想像なのだけれど、あの集合的無意識な夢の場の、基点となるのはエマの働く花屋なのかなー、と思っています。
夢の登場人物たちは、みんな花屋の客たちばかり。
たぶん、バルウィンの元へも見舞いの花が贈られたことがありそう。
だからこそ白いマーガレットの花ことばを知り、その花を手に入れ、そしてアベルに託せたのかな、と。

人が花を贈る理由について、エマが何か語っていた記憶があるのに思い出せない。
その辺が理由になりえそうなのに……!
まぁ、とにかく、十年もの間悪夢を見続けてきたアベル、を、「彼」が発見できたきっかけは、エマとの接点ができたからかな、と。

で、「黒いの-!」と呼び掛けられるアベル。
黒いの、とは?
彼にまとわりついていた黒い影、含めての「黒いの」なのかな。
その辺がちょっと解釈しきれていない、わからないなー、なんだろう?

わからないけれど、舞台として好きな部分は、不安を示す悪夢の表現がコンテンポラリーダンスなこと。
鷹翔さん、黒い影たちのあのダンス、とても素敵でした。
でも「黒いの」ってなんでだろうね?
(※上に追記しました)


舞台がドイツである意味(バルウィンという名前、あとはユーロ表記のモノの値段だったり、グリューワインとプレッツェルを売るあの屋台だったり)にもなんらかの背景があるのかなー。
とか、お花屋さんの存在と意味と夢との相関とか。
そもそも夢についての心理学的なこととか。
いろいろと深堀したら面白そうなのだけれど、圧倒的に知識が足りなくて掘り切れない。
もしご存知の方がいたら、この辺を調べるといいかもよ、的ワードを教えてくださったらうれしいです。
面白かったな……。


夢から脱せたバルウィン。
少しずつ回復し、それをのんびりと待ってくれるアベルと一緒に、段階を踏んでかくれんぼや鬼ごっこ以外の遊びを覚えていって、でも時にあの丘に似た公園でアベルと一緒にピクニックをし、羊のたくさんいる牧場で、友人をつくるより上手かった羊と仲良くなる技術をアベルに見せ、なんて風に現実の世界を楽しんでほしいなぁ、と思います。


あーー、いいお話だった!台本ください!!!
あともう10回くらい見たいので、早急に円盤化お願いいたします!
そのときはメイメロのゴロゴロシーンを全日程入れてください、金なら払う。