それがあなたの生きる道

「タカラジェンヌさんってマジで凄いっすね……」という、宝塚好きになって歴10か月目突入して改めて抱いた感想を、なんかツラツラと書いているだけです。


中学生の頃、わたしは舞妓さんという職業に強い関心を抱いていた。

なぜその職業を知ったのかは覚えていない。ただただ憧れ、なるためにはどうしたらいいか、を調べ始めた。今ほど情報へのアクセスが子どもには容易ではなかった頃だから、芸舞妓や京都の花街に関する情報を図書館で探して読む程度のことしかできてはいないのだけれど。

中卒で、東京の親元を離れて芸事に打ち込むという生き方。その日舞などの芸事が好きという訳ではなく、ただ職業に対するぼんやりとした憧れだけで自分にできるだろうか?

親にチラリと言ってみたら、「あなたの性格じゃむりよね」とバッサリ。うん、自分でもそう思う。だって「相談」であって「説得」というスタンスですらなかったのだもの。心構えが全くできていない。

それでも諦めるには気持ちがあり過ぎて、置屋あてにお手紙を書いてみたりもした。が、結局、自分の器用貧乏さ、故の根性のなさもあり、大学進学を前提とした高校受験、という、ごく「普通」の選択をした。


そして宝塚だ。

いまこの時代、女性が大学に進学するという選択がごくごく当たり前のこの時代に、そういった学歴から切り離されひたすら芸事にまい進する厳しい世界に身を置くには、本人に強い信念がなくては難しい。この世界で身を立てるという決意、芸事に対する思い入れ、あるいはステージの上の世界への憧れ。その後の人生の約束もない場所に飛び込むのに、果たしてどれだけの勇気が必要なのだろう?

片手間に高校に通うこともできないほど、ただただ2年間芸事に打ち込む。卒業と同時に「プロ」になることを求められる、そんな世界。その始まりは学校に入る前、厳しい受験を勝ち抜くところから既に始まっていて、入る前から日々レッスンに明け暮れる。それだけのことをやり抜いた人たちだけが、そしてその後も自身を磨き続ける人だけがこのステージの上に立っている。

しかも、宝塚に在籍する限り、ステージを降りてすら芸名を背負い続けている。常に「清く、正しく、美しく」。オフだからと気を抜くこともできない。

それだけの、他者から見れば「多大な犠牲」を払って、そうしてつくりあげた集大成がここなのだ、と、舞台の幕があがる瞬間、また舞台の終わり、パレードで浮かべる笑顔を見た瞬間、しみじみと考える。なんて奇跡的な場所で、時間なんだろう。


波瀾爆笑!? 我が人生Ⅲ』を最初に読んだ時、「金太郎あめのようだな」という感想を抱いた。兄弟姉妹はこんな感じで、こんな幼少期を過ごし、こんなきっかけで宝塚を目指した。何パターンかのフォーマットがある感じ。月刊誌連載としてならともかく、まとめて読むとなると、読み物としての魅力が薄いなぁ、という感想。

でも、考えてみたら当然なんですよね。彼女たちの「タカラジェンヌ以前」の人生は、せいぜいが高校まで。芸術系の習い事を幼いころから、あるいは受験のためにできるような家庭環境で育っている。となれば、そんなに波乱万丈な人生があるわけもなし。当然だった。そしてタカラジェンヌさんへの解像度が上がり、関心が高まった後に読めば実に面白いと思うのだから、現金なものです。


先日の宙組千秋楽で、友人の推し(あるいはご贔屓)が大劇場を卒業されました。

友人が好きにならなければ、その方の演技に気づくことはわたしには難しかったかもしれない(スポットライト追いがち族だから)。けれど、出番表を見せて頂いて、どういう風にお役を作っているかを知ってしまえば、つい目が行く。目が行けば、そこで輝いているのを知る。知ってしまえば、次からは当たり前に目が追う。主役だけで物語が進むはずもなく、こうやってしっかりとした支える方がいてこそ、物語が深まり輝くのだなぁ、と、しみじみと考える。

その方が、スッキリとしたお顔で大階段を袴姿で降りる姿を配信で見ながら、こうやって「十分やりきった、悔いはない」と思えるほどになるまでの時間に思いを馳せる。なんてすばらしい生き方なのだろう?一体どれほどの人が、自分の過ごした十数年の集大成を、こんな風に迎えることができるのだろうか。本当に尊敬しかない。タカラジェンヌになろうと思ってくださって、ありがとうございます。

そして改めて、「推しは推せる時に推せ」だなぁ、との思いを新たにした所存です。集合日こわいやだ無理ぃ……。

(星組の集合日のニュースに愕然としながら、こちらを書きました)