ずっと肌寒い(愛着障害について①)
ずっと肌寒い気がしていたし、今もしている。
春先の寒い感じ、気を張っていれば耐えられるけれどここでうたた寝したら風邪をひきそうな、あの感じ。
暖かい家に帰って心からリラックスできる日を夢見ていたが、アラフォーに差し掛かったころ、家探しに疲れて諦めた。
親に対して不満があったし、自分のこの孤独感は育てられ方のせいだと確信していたけれど、アダルトチルドレンや虐待などの話をいくら調べても、自分の家庭はそれに当てはまらなかった。
虐待されていたわけではない。ネグレクトもされていない。教育虐待というほどでもない。母親はちゃんとしていたし、今思い返すと愛されていたと思えるエピソードもいくつもある。
衣食住も教育も十分に与えられ、いわゆる「親ガチャ」ならば、当たりのほうを引いたのだと思う。
だからこそ、親に対しての不満を口にするなど、親不孝で、贅沢なことだと、自分にそれを禁じてきた。
最近になって「愛着障害」というキーワードを見つけた。
それについての本を読んでみたら、自分の家庭ととてもよく似た事例がぼろぼろ登場し、これだ、と思った。
その本によると1/3くらいの人は愛着障害だという。
どの家庭にも多かれ少なかれ問題はあるのだから、と問題について語れずにいると、語れずにいること自体が傷を深くするのだと気づいた。
たとえて言うなら、インフルエンザだ。
生きていれば大抵の人はかかる病気で、ほとんどは完治する。
だからといって、治療が不要なわけじゃない。
インフルエンザかもしれないと思ったら、受診して、適切な治療を受けないとこじらせて危険なことになる。
私は私のインフルエンザを自力で治そうとして、肺炎になったのだと思う。
別に親に話さなくてもいい。
自分で診断して、そうだったんだなあと認識しただけでも、かなり安心した。
具体的に言うと、病気がちな姉と兄がいて、母親はフルタイムで働いていて、とにかく健康だった私は、「手がかからなくて助かる」と思われていた。
それが自分の価値だと認識した私は、よりいっそう「手がかからない子」になっていった。
長時間保育園に預けられ、家に帰っても母親との二人の時間がないまま寝かしつけられていた私は、さながら、「飼われたけれど散歩に連れて行ってもらえない犬」のようであった。
犬からしたら、「なんで飼ったし?」である。
一緒に楽しい時間を過ごしたかったわけではないのか?
この時の気持ちを、「寂しさ」と表現するのは簡単だし、理解されやすいと思う。
けれども、それでは表現しきれないのだ。
もっとも手がかからない子になる方法、それは自分の存在を消すことである。
もちろん、死のうなどとは思わなかった。死んだら死んだで騒ぎになって、結果的に手がかかってしまう。
ただ、「産まなきゃよかったのにね」と思っていた。この世界に私は必要とされていない。
今思えば、ずっと仕事を頑張ってきたのも、「成果を出してこそ必要とされる」(=デフォルトでは必要とされていない)という思い込みがあったからだと思う。
職場だからそれはある程度は真実なのだけれど、頑張らなくてもとくに不安そうにしていない同僚を見ると、育ちが違うんだなと感じる。
「いい子病」をググると、「人の顔色を気にする」「自分の意見を言えない」「やりたいことが分からない」などがヒットするのだが、それもちょっと違うなと思う。
それは「熱がある」「鼻水が出る」みたいな「症状」であって、本丸ではない。それらはもう克服したのだ。
問題は、「自分の存在意義が見つからない」という点にある。
私は、病気にならないよう健康に気遣っている。お金に困らないようにやりくりしている。そうやって、長生きしても大丈夫なように生活しているけれど、たびたび、「なんのために?」という虚しさが襲ってくる。
そもそもいなくてもいいのに。バカみたい。
しかし、多くの人は自分の存在意義なんて考えていない。
そもそもそんなもの必要ないのだと思う。
それは、楽しいからだろうか?
かくいう自分も、何かに熱中して楽しかった時期は、存在意義など考えなかった。
インナーチャイルドとやらを癒した暁には、もっと日々が楽しくなるのかもしれない。
また続きを書くと思う。