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表現は持続可能なエネルギー_100日後にZINEをつくる、24日目


14歳はみんな詩人

華の14歳の娘がnoteに綴る自由詩がとてもいい。
自分であることが痛くて痛くてしかたない彼らにしか書けない痛みがある。
40のわたしが同じ文字を並べても、それはたぶん作為にしかならなくて、それはただのダサいことばにしかならない。

偉大なるHBOドラマ『ROME』でオクタヴィアヌスも語っていた通り、大人になってしまったら書けない言葉があるのは本当。

わたしはこの歳まで生きのびてきた自分に悔いはないけど、10代の頃にもっと真剣にことばを使って怒りや葛藤を表現しておけばよかったと思う。
後悔ではなく、そうしておけばよかったんだ!と今になって答えを見つけた感じ。

思春期の日常は生存戦略

思春期は「外からの視線」が土足でずかずか侵入してきて、「外をみている自分」を侵略しようと挑んでくる。
「外からの視線」はそれはもう巨大な巨大な存在だから、「外をみている自分」はあっという間にのみこまれそうになる。
この侵略戦争に負けると、劣等感と無力感に支配され、「外からの視線」の奴隷として生きていくしかできなくなる。

しかし!
この侵略してくる勢力に全身で抵抗して、怒り、自分を明け渡さないように守ることができるのもまた、10代にしかもち得ないスペシャルなパワーだ。

自分を脅かす巨大な世界が「実は中身はすかすかの風船でした、針刺したら残骸しか残りませんでした」なんてことに気づくのは、30を過ぎてからすればいい。

その、寝る間も惜しんで自分を守るため、生きのびるために戦った経験が、人生の歩幅になる気がする。

思春期のエネルギーは家庭内でも循環する

家族に中学生女子が二人存在するということは、日夜彼らのアグレッシブなエネルギーにさらされるわけで、母がなんてことない優しさを差し出してもカウンターパンチが返ってくるようなスリリングな日々。
娘からのカウンターパンチをいかに防御するか、いかに倍返ししてやるかと考えて脳細胞を使ってるわたしもまた、彼らのエネルギーの恩恵を受けて生きてる。

長女はだれにもぶつけきれない、持て余した葛藤や怒りや悲しさや不安を、詩や物語で世界に表現する、という手段を見つけた。
次女は、言葉にならないエネルギーは、部活や遊びで全身を使って表現している。

もちろん我が子に限らず、日々子どもたちはコスパなんて考えることなく、無尽蔵のエネルギーを世界にまき散らしながら大人になる。
我々大人は、その若い世代のエネルギーに圧倒されたり追い立てられたりしながら、彼らの前を歩いているつもりで生きてる。

「子どもは社会の宝」という意味がやっとこさ腑に落ちた。

表現は世界と自分の交換

今のわたしには10代の頃の無限に湧き出るエネルギーはない。
気力と体力の限界にごつごつぶつかりながら、30代を使って再生可能エネルギーにシフトチェンジしてきたように思う。

でも、表現することは、世界に対して自分を見せつけたり存在を示したりすることなんかじゃなくて、世界と自分のコミュニケーションだ。
「外からの視線」に遠慮も抵抗もすることなく、「わたしがみているもの」を表現する。
そして世界からの応答を受け取ってまたひとつ豊かになったわたしを渡す。
こうやってぐるぐるぐるぐる世界と自分を循環させられるのが表現なんだなあ、ってことを子どもたちから教わった。

もういい加減、わたしは世界と戦うことをやめていいんだ。
ハンズアップしてはじめて、世界は敵じゃなかったって気づける。

ここからは20年後の自分を後悔させないように、中年のわたしを思う存分表現して生きていこう。

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