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言葉にできることとできないこと_100日後にZINEをつくる、99日目

昨夜、何度も寝落ちしながら書いたnoteを恐る恐る読み返す。
膜が張った牛乳を飲んでいるような、口の中にモヤモヤが残るものになっていて、地に足ついてないのは自分でござんした!と恥ずかしくなる。
こうやって、自分の投げたものは必ず自分の元に戻ってくるということを死ぬまで思い知らされるシステム。よくできてる。

感じていることを言葉にするのって、どうしてこんなに難しいんだろう。

「ただ生きている」
「命がある」

・・・みつを?
ちがう、ちがう、「生きているだけですばらしい」とか「どの命も尊い」とか、そんな感動のお裾分けがしたいわけじゃない。

わたしが上手く言えずにもごもごしてしまうのは。

生きてる幸せに気づこう。
幸せを追い求められるあなたはすでに幸せですよ。
青い鳥は自分の心の中に住んでる。

なんて、人の口こじ開けて砂糖菓子突っ込むようなことがしたいんじゃない。

幸せの絶頂でも、使いきれないほどの富をもっていても、人からどんなに羨ましがられる人生を送っていても。
骨折すれば痛い。
大事な人が死んだら辛い。
明日死ぬとわかったら怖い。
どれだけ自分の人生を+で飾っても、痛みとか悲しみ、恐怖に直面するのは飾りようのないむきだしの命。

絶望のどん底でも、不安と恐怖で発狂しそうでも、死にそうなくらい死にたくても。
心臓は動いてるし、身体は酸素を求める。
引きこもりだって、うつで寝たきりだって、身体を機能させる命は死ぬまで全力しか出せない。

だから、つまり、一度この世に存在してしまったら、望む望まないに関わらず、全員もれなく「命を全うする」しくみになってる。

ハッピーさんも、どん底さんも、穏やかさんも、みんな歩いている平均台の幅は同じ。

死んではいけない、生きるべしなんて、全く思わない。
「謙虚に努力を怠らず命に感謝して精一杯生きなさい」なんて説教されなくても、もうみんなみんなの命が一生懸命やってるじゃん!
って思っているってこと。

命って言うから、うさん臭いのかな。
魂って言うと更に怪しさが増すな。

生、存在、エネルギー、どう呼べばいいのかわからない。生き物にあるこのよくわからんすごいエネルギーや力の源を説明するために「神」やら「仏」やら「天」やらという言葉が必要だったにちがいない。

だからこそ他の命に対しての傲慢なふるまいを見るたびに、その鼻をへし折ってやりたいと憎しみが湧く。

親と子、先生と生徒、男と女、エリートと労働者、健常者と障害者
分けることが分かることにつながるのは理解しているんだけど、分けようがない根っこの部分を忘れないでくれよ。

ここまで99日間、言葉を絞ってきて思うことがある。

考えてることを言葉にすることはできるのに、感じていることを言葉にすることはできない。
感じてることを相手にも感じさせることができるのが、プロの表現者なんだろう。

それでも言葉ほど便利なものはないから、簡単に言葉を投げたり受け取ったりして、わかってもらった気にも、わかった気にもなれてしまう。

「悲しい」「ショック」「ウケる」「最悪」
同じ言葉で反応している人も、その言葉で伝えたいことはみんな違う。
でも最終的には、受取る側次第で言葉の意味はいかようにも変身する。
相手が青いボールを投げてきても、わたしが赤いボールとして受け取ればわたしの心は赤くなる。

そっか、私が「命」とか「生きている状態」とか言葉をいくら選んで投げたって、その言葉の価値を決めるのは相手だ。

だからやっぱり、「それ」を大切にしたいと思っていない相手には、伝えることはできないのかな。

言葉で分かり合うことはできるのかな。
言葉にできることはなんだろう。

片一方のみの努力やスキルで、対話することは可能なのだろうか。
NVCの達人にぜひとも尋ねてみたい。





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