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語るカタルシス_100日後にZINEをつくる、28日目

先日、友人が配信しているラジオに助っ人出演した。
話をしている中で、あれ?私が言いたいことと全然違うニュアンスで受け取られているぞ、と感じる瞬間があった。
もちろん双方向の会話なので、伝えたいことを言い換えて、最後は「これが言いたかったの」と自分が握っているものを見せることができた。たぶん。


自分の声がすごく嫌いなので、普段は録音したものを聞き返すことはないのだけど、「投げてないボールを受け取られる現象」の謎が気になって聞き返してみた。

すると、恐ろしいことに気づいた。
わたし、自分が言いたいことと全然違うことを喋ってる。
全体的に助詞が甘い。受動/能動も意図せずひっくりかえったりしていて、なんていうか、全身の関節が弱いことばばっかり口からでている。
マンマミーヤ!


わたしにとって「考える」は、「こたえのようなもの」を求めて石を削っていく行為で、大きな石を抱えている時ほど削った破片が周りにごろんごろんしている。

書く時にはまわりの破片をよけて「見つけたもの」だけを見せることができるんだけど、「話す」のが下手なわたしは削った破片まで見せてしまうんだな。だから冗長なんだ。

それならなぜわざわざ下手な「対話」がやめられないかといえば、だれかと話をすることは、石を削る道具をたくさん手渡してもらえることだから。
「こんな良いミノありまっせ」と見たことのない道具を渡してくれたり、場合によっては横からハンマーで叩き割ってもらえることもある。

自分1人で石を削っていく作業は、なんとなく頭の中にイメージが見えていて、そこを目指してこすったり、削ったり、やすりをかけたり、安心して没頭できる、大事な時間。

しかし、だれか相手にモノを語るという行為は、半分は相手にゆだね、自分にとってごくあたりまえの部分にスポットライトをあててもらったり、「私こっちから削っていくから、そっちから削ってよ」みたいな「完成形のみえない何か」をつくっていける作業だ。

語るって、対話って、なんてクリエイティブ!

だからやっぱり、わたしにとっては「考えて書くこと」と「考えながら語ること」は別々の行為みたい。

より集中して自分の想いを語れるように、話をする練習をしよう!と思った夜でした。




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