見出し画像

冗長なわたし_100日後にZINEをつくる、12日目

ここまでnoteの投稿を続けてきて、書くことがないことよりも、書きはじめるといつまでもうだうだと終れない自分の思考のクセを目の当たりにして、大学のレポート提出で「文が長い」とコメントされたことを思い出す。


冗長な人間は何かを伝えたいときには意識して積極的に「。」を使う必要がある。

ごてごてすればするほど、結局言いたいことが伝わらない。
「要するに」の要約作業を相手にさせるのは親切じゃない。

わかっているけど本当は、「要するに?」なんて思考を手放し、プルーストのように「、」でつながれていく世界をさまようことが好き。

彼にかかれば叔母の家の匂いでさえ、果てしない感覚世界への入り口になってしまう。

なるほど、それらの香りは自然のものであり、近くの田園の匂いのように、刻々に変化する空の色にも譬えられる匂いなのだが、すでに、蟄居しているかのごとく、人間くさい、内にこもった匂いでもあって、さらに譬喩を続ければ、果樹園から戸棚に移された、その年に採れたあらゆる果物を使ってたくみに作られた清らかで美味なるゼリーにも比せられる匂い、季節ごとに変化する一方で、家具や召使いのように居すわって、白い霜の刺すような冷たさを和らげてくれる焼きたてのパンのように柔らかな匂い、村の大時計のようにのんびりしているのに几帳面で、あてどなくさまようと見えて自分のいる場所をわきまえていて、行き当たりばったりのようでいて用意周到な、衣類やシーツをしまう整理箪笥のような匂い、早起きで、信心深く、結局は不安をかきたてるだけの平安を喜んでいる匂い、その部屋で暮らしたことがなくてただそこを横切るだけの者なら、詩精神の大貯蔵庫とも感じるであろう散文的な日常を愉しんでいる匂いだった。

プルースト/高遠弘美 訳「失われた時を求めて①」(P126-127)

要約不可能な一文。
追えば追うほど「。」が逃げていく文章。
読み進めるにつれ鼻の奥の匂いがどんどん変化していく、冗長ではなく見事な一文。
(しかしこれは読むから楽しいのであって、こんな話し方をする人がいたらたぶん嫌われもの。)

「でも」「でもやっぱり」「結局は」という思考をぐるぐると続けながら、やっぱりわたしはらせん状でしか生きていけないようだ。

ZINEのタイトルはどうしようか。

明日へつづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?