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平成の妻と令和の妻と、令和の娘_100日後にZINEをつくる、62日目

日曜のクリスマスイブ。午後中かけて日ごろのストレス発散とばかりにひたすらに作る。グラタン、ローストビーフ、ジャーマンポテト、リンゴのサラダ、ガーリックトースト、ガトーショコラ、フルーツヨーグルトクリーム。夫の友人とわたしの母を招いて、ホームアローンを観ながらたべる、みんなお腹いっぱいで幸せな時間。完成形の撮影はいつも通り忘れる。

じゃかじゃかつくることの達成感

食器を洗ってくれていた母と次女の会話が面白い。

「パパはなんにもしないくせにいばってて嫌だ。」
ー でも、パパが仕事してくれてるからみんな生活できるんじゃん。
「仕事はママだってしてるし、パパがいなくても生活していけるもん。」
ー パパの方が稼いでるでしょ。だからこの家に住んでいられるんでしょ。
「そんなことないよ、ママは仕事して家のこともやって子どもの面倒も全部みてるから、パパの収入がなくても私たちは何も困らない!」
ー それを言われちゃったらパパの立場がないじゃない。パパにどうしてほしいの?
「うーん、わたし達と同じように食器並べたり、洗濯物はずしたり、ママのお手伝いをしてほしい。自分はやらないのに”ママのお手伝いしな”って言われたくない。」
ー 昭和の男の価値観だね。
「この前ママが具合悪いときに”中学生女子のくせに料理もできないの?”って言ってきて、超頭にきた!差別だよ!男女差別!」
ー えー!自分はなんにもしないくせにね。

2世代差の会話は隣で聞いていると、いろいろと面白い。

やはり戦争を経験した父を持つ母は、家庭における「父」の権力に反感を抱きながらも、「それでも家族を養う父が一番偉い」という価値観を受け入れることで多くのことを我慢してきた。なので反射的に「それでも父の収入が家族を支えている」という思考スイッチが入るのは当然。家庭的であることが主婦としての理想である、という価値観が言葉ににじみでる。

しかし日々子どもとして生活している娘は、父と母の収入を比べて「どちらが偉い」かなんてみじんも考えていない。自分の生活にコミットする存在がより大きくなるのは当然。

昭和の妻はここで毎日「お父さんは偉いのよ」「お父さんが居てくれるから私たちは生活できるのよ」と不在の父の権威を夫に代わって示してきた。そうでもしなくちゃ自分自身も納得できなかったのだろう、と考えるのが令和の妻である。(主語が大きくなりすぎたかしら)わたしたちは「稼いでる人がいるから生活できる」わけじゃなく「誰かが家事しないと生活まわらないよね」って気づいてしまったのだ。

おそらく戦後に生まれ育っていたら親に殴り殺されていたにちがいないわたしは「偉い行いはあっても、偉い人なんてどこにもいない」「親も、大人も、子どもより早く生まれてきただけの人だから、年上だからって威張ってる奴はみんなダサい」とべらべら喋っているので、子どもたちが親や大人を当たり前に敬えないのはしかたない。言うまでもないが、敬わない=見下していい、ではない。

わたしの母の考えと、次女の考え。そしてわたしの考え。
誰が正しい、間違っている、ではない。
誰の考えが古い、新しい、でもない。

仕事をしている、家事をしている、育児をしている、なにが一番大変で、誰が一番敬われるべきなのか。そんなことは現代の「家族」においてはどうでもいいことだ。全部やるのは大変。でも、全部に関わった方が絶対面白い。

不平不満はたくさんあるが、今のところわたしは子どもたちが自立するまではこの面白さを堪能しよう。



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