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「夫婦」と「家族」についてかんがえる_100日後にZINEをつくる、18日目_

「男女の脳には違いがあるんだから、夫婦はそれをお互い受け入れて、理解し合い、許すことが大事」
という話を真剣に話してくれた人がいて、私も真剣に「その物言いで得してるのはだれだ」って思ってた。


「夫婦はお互いを受け入れよう」の罠

「お互い」という言葉にどうしたって「妻が」のニュアンスを嗅ぎ取ってしまう、根性がねじくれているわたし。
コミュニケーションが絶対的に必要なスキルである<家庭>という空間において、本来「苦手だから大目に見てね」は通用しませんよ。

大目になんか見てやらん!と思いつつ、「期待する方がストレスだから、もう頼らないでおこう」と諦めてる妻はわたしを筆頭に山ほどいる。

「大目に見る」といって堂々と半人前扱いされたら、世の夫は「俺は妻にバカにされている」って被害妄想を抱くはず。
だから「妻が夫を大目に見る」という行為には「半人前の夫を一人前として扱いながら」という注意事項がつく。

女って、社会でも家庭でもずっと小芝居させられる人生しか送っちゃいけないのか。長いため息が出る。

「苦手なことをわかってほしい」と言うのであれば、なんで同じ声量で「教えてくれる?」って言わないんだろう。
夫の「やりたくない」を「苦手」や「できない」に勝手に変換して「妻は大目に見てね」のプラカドードを掲げられても、そんなのボッコボコのぎったぎたにしてやりたいよ。

子どもに愛情をかけるのが苦手な母は、誰にも大目になんか見てもらえない。
「母親なんだからできる」とか「こうやって子どもに接すればいい」って励ましとアドバイスをもらいながら、努力することをずっと求められ続ける。

シングルタスクとマルチタスク、どっちが損してる?

『男はシングルタスク、女はマルチタスク』ってのも、性差じゃねーよ!!ってでかい声でいいたい。
「個人差はもちろんありますが、傾向としては~」とよく聞くけど、我が子を観察してもただの個体差としか思えない。

家事をしながら子どもの相手をしつつ、夕飯の段取りを考えることが普通のわたしだって、メールを入力している時に何度も話しかけられると「これ終わるまで待って!」ってイラっとするし、マルチだろうがシングルだろうが目の前のことに集中したいに決まってるじゃないか。

マルチタスクができる人だって、そればかり求められればストレスがたまる。
運転が震えるくらい苦手な私には、話しかけられたり音楽が流れていることすら安全運転の弊害になる。
夫に「なんでこのくらいの運転もできないんだ」って言われて、「わたしも『なんでこのくらいの家事もできないんだ』って常に思ってるよ」って返答してお互い舌打ちしあうのがうちの夫婦。
わかりあう夫婦までは程遠い。

やはり『マルチタスク』って、当人がオートモードでこなせる作業に限り同時進行可能なのであって、『男はシングルタスク』という言説は、単に家事に慣れていないというだけの話なんじゃないか。

もちろん人には得意なことも苦手なことも性差に関係なくあって当然なんだから、お互い得意なことはしてお互い苦手なことはお互い努力して協力してやっていくしかないし、家庭の外に助けを求めることができるのも大事なスキル。

『夫婦』を解体したい

そもそも夫婦と子どもたち、という単位だからうまくいかなくなるんだ。
意識を「妻夫子子子」から「人人人人人」のコミュニティへ変容したい。

続柄や肩書こそが<役割>を作り出し、肩書に人を押し込めるから無理したり、できないことに罪悪感を感じたり、その役に甘んじて、できることすらやらないようになってしまう。

旧来の家族観で生きると、外部からのサポートも『「妻夫子子子」+他者』と捉えてしまうけど、コミュニティとしての家族なら『人人人人人+人』って、その時の必要に応じて増えたり縮小出来たりする。

他者に強制させられた<役割>はその人のエネルギーを奪うけど、ひとが得意を活かした<役割>は生きる力となる。

だからわたしは「男になんか期待もせん」とふてくされていないで、自分が心地よくいられる家族のかたちを模索する。

誰かを追い出したり、離れたりすることなく、ここにいたいと思ってるひとが一緒にいればたとえ血がつながっていなくてもそれがわたしにとっての『家族』だ。

家族の掟に代わる、コミュニティのルールは必要?

「よそはよそ、うちはうち」という時の「よそ/うち」の線引きってなんだろう?
「/」はきっとその家族内限定のルールであり、その家の『主義』だ。

家族をコミュニティとして捉えたとしても、共同体である以上ルールが必要だろうか。
血縁にこだわらない共同体では、なおさら『主義』というものが重要になる気もする。

でもわたしはその『主義』を大きく掲げる場に近づくのが苦手だし、個人的には血縁以上に害をなす危険もあるという認識をしてる。

『あらゆる主義が共存し、人が自分の役割を果たし、単純に人と人がケアし合えるコミュニティ』に、はたしてどんなルールが必要なのか。

これについてはまだまだずっと考え続けたい。

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