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得意と好きのちがい_100日後にZINEをつくる、56日目

空っぽのあたまで鍵盤に指をおき、1音を鳴らす。

最初の1音が響いた瞬間に指が勝手にうごきだす。
音楽が流れる。
頭ではなく、からだが音楽を奏でる。

もしくは、

真っ白なカンバスの前にまっさらな自分で立つ。
色に毛先をのせて絵筆を振る。

こころが色や形に変わっていく。
からだが色彩を描く。

もしくは、

カーソルが点滅するPCの前で、なにもない自分で座っている。
ぽとん、と言葉をひとつ画面に落とす。
リトマス紙に落ちた水滴が色を変えていくように、指がキーの上を動く。

からだが、こころに言葉を与えていく。

毎日向き合う、この画面

弾いた曲を自分の耳が聞いて、違和感を感じたら弾きなおす。
この時に調整しているのはこころと指の動きの誤差。

表現したいものはからだの外に出して、聞いて、見て、読んで、外からの視線で観察しなければ味わうことができない。

こころが表現したいとおりに表現できるようになるには練習が必要で、それはめんどくさいし、しんどいし、時にはつらい。

でも、そこには必ず喜びがある。
命の願いが叶うと、ちゃんとからだが喜ぶ。

歌う、とか、踊る、とか、造る、撮る、もきっと全部同じ。

人は色んな方法で自分の命を表現する

わたしはピアノが弾けないし、歌うことも踊ることも、「手段」にできるレベルの能力に達していないのでそれらを使って表現はしないけど、

と書いて、指がとまる。
うーん、正しくないな。

表現手段を選ぶことと、それの能力値は全然関係ない。
わたしは「歌が下手だから歌を表現手段にしない」って思ってるんだと考えていたけど、
「書くのが得意だから書くことを選んだ」わけじゃない。

そもそも、自分がnoteに書いた文章を「上手い」「下手」ってジャッジができない。
その想いと外に出した言葉に誤差がありすぎると「違和感」だし、そのまんま言葉を乗せられた!って感じると「最高だ!」ってうれしい。

きっと、書くことを職業にすると「読んでもらうためのお作法」を身につけなければいけないし、それが対価を得るためのマナー。
その場合には「より上手く」書くことが評価される。
自分のこころに忠実であることよりも、読ませるテクニックが必要になる。

でも、それが「からだを叶える」を目的にする表現であれば、自分の好きな手段を選んでいい。
そこに「よろこび」があれば、わたしが大きな声で歌うことも、指を好きに動かしてピアノを鳴らすことも自由だ。

noteで書くようになってから、わたしは案外「撮ること」も好きだなって気づいている。

でも、人が行きかう場所で「スマホをかざして撮っている自分」を見られることの恥ずかしさがあって、なかなか思うままにカシャカシャ撮れない。

「こんなの撮ってる自分が恥ずかしい」とか「近所の人に目撃されたら赤面」とか「写真て、クリエイティブなセンスがあるひとのもの」って頭で考えてしまっている。

冷たくて暗い川べりの冬の野草の力

どうもわたしの中には「下手な人には、それを好きっていう資格はない」という悲しい刷り込みがある。

でも、悲しさより、恥ずかしさより、「よろこび」の方が大きな力をもっていることをわたしはすでに知ってる。

だからわたしも「外でスマホをかざすこと」の恥ずかしさに慣れて、撮りたいように撮ることの喜びを享受しよう。

電線に縛られている空を、通りに誰もいない隙にパチっと撮る



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