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お金の不安_100日後にZINEをつくる、35日目

最近連日のように「お金の不安」聞いていて、私の10倍くらい資産をもっている人がなんで「このままじゃ死んでしまう」くらい不安になってしまうんだろうか、と不思議に思う。

基本的に人はお金や家を失っても死ねないし、死ぬまでは生きていくしかないんだから「死んでしまうんじゃないか」という不安は今生きている命に対して無意味どころか害でしかないのに。
と考えられる私は「それなりに健康でまだ死に向き合わなくていい人間の特権」を提示しているだけなんだろうか。

貧しいことが辛い、は想像できる。わたしも子どもが大きくなるにつ入れての出費出費出費に「やばい、どうしよ!!」となることもしばしばだし、エンゲル係数が高くなる一方の家計簿を前にしていつも溜め息をついている。

こういった状態が続くと、お金を使って純粋に楽しむことができなくなっていく。

家族の「○○したい!」に対して「×5人でいくらかかると思ってんの?」とイラっとしたり、「そこにお金を使うならこれはしばらく我慢だな」と解放した分だけ別のものに対する抑圧が発生したり、「貧しさ」はとめどのない苦痛を生み出していくシステム。

しかし、貧しさによる苦痛の真の敵はお金がないことではないことも知ってる。「自己責任」だ。

苦しいなあと思うたびに「自己責任」が苦痛を感じた自分を責める。
「自業自得だ!」という心の声は現実の苦しさに対して「辛い」と感じる自分を責める。

自己責任や自業自得の苦しみなんて世の中にごまんとあふれているけど、人は「自己責任」を抱えていないと現実の辛さに向き合えないんだろうか。

目を瞑っていたって目の前で展開される現実に「自己責任」をわざわざ発動させなくてはいけない理由ってなんだろうか。

「自己責任」を発動し続けるとどうなるか。
おそらく人を信じられなくなっていく。

「これは自分の問題だから誰にも助けを求めてはいけない」世界の中でどんどん孤独になっていく。
孤独と不信が産み出すものは「不安」しかない。
『不安』こそが真の親玉。
不安に追い立てられた選択や決断は、必ず自分や他者を脅かす。

それなのに、「不安」を手放すことは罪深いことだと認識してしまうのはなぜだろう。
苦しみぬいたものこそ偉い、という苦痛や貧しさにもヒエラルキーが存在するのはなぜだろう。

あるブログで「インフラの整っていない国は生活をしていく際に他人に頼らざるを得なくなり、誰しも必然的に頼る/頼られるの関係を構築していくので、お金を使って何でも手に入れられる国よりも幸福度が高い」という話を読んだ。
発展途上国の豊かさと先進国の貧しさは一軸で対比できるような単純なものではないとわかっているが「人間を安心させるのはお金ではない」ことは確か。

「お金の不安」を抱えている人の不安は、「お金を失う」不安ではなくて、「助け合いのできる人間関係がない」ことの不安だ。
というボールを抱えて明日もおそらくお金の不安の話を聞くんだろう、わたしは。


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