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ジェンダーバイアス_100日後にZINEをつくる、29日目


フェミニストのなかにある「らしさ」の呪い

ここ数年、フェミニズムを学び始めてからメディアの発信や他者の発言に対して、そのまま鵜呑みにしない基礎体力はなんとなくついてきた自覚がある。

娘と息子を育てるにあたっても、「〇〇らしさ」の呪いをかけないように意識してきたし、子どもたちにも「性別に関係なく、自分でいることにエネルギーを使ってください」と伝えてきた。

ところがどっこい。

この前登山をしたときのこと。息子が姉に対して「ここの石すべるから気をつけて!」とか「(ぼくが)見てるから進んで!」などの気遣い精神を全力で発揮。

自分より大きな人に対する小さい人の思いやりを微笑ましく思ったわたしが言ったこと。
「うわーすごい!男らしい!」

間髪入れず娘に
「男らしいとかやめなよ、そーゆーのがよくないんだよ」
と真顔で言われてびっくりした。自分に。

「あ、はい、ほんとそうですよね」と言った後、自分の口から「男らしい」という言葉がナチュラルにとびだした件については、山の道の険しさでうやむやになってしまった。

「男らしい」の害ってなんだろう

娘が他者への気遣いを見せたときには、何て言うだろう。
「男らしい」とは言わず、「やさしいね」「気にしてくれてありがとう」と言ったはず。
じゃあなんでわざわざ「男らしい」と言ったのかと言えば、息子がその言葉を喜ぶと知っていたから。

ハルクやゴーレムマンみたいな怪力で大きいものが大好きな息子にとって、「つよい」「たくましい」「大きい」は全て誉め言葉。
同じ言葉を娘に使うと嫌な顔をされる。

「男らしい」の「男」に他者を守ろうとする心や思いやりといった意味を含ませることが害なのか。
「男」と限定することで、女「より」つよい、女「より」たくましい、といった比較をすることが問題なのか。

そもそも「男らしい」と言われて喜ぶことは悪いのか。
「男らしい」と言われて喜ぶような、何かの影響を息子に与えてしまったことが間違いだったのか。

人を「らしさ」の檻に閉じ込めることは害だってことはわかりやすいけど、「男らしく」「女らしく」ありたいと思う心を否定する権利は誰にもないってことも分かってる。

うーん、とても難しい。

わたしのメガネはくもっている

『賢い女は男を育てる』『男のやることは大目に見ろ』『かわいくお願いできない女は損する』と育てられてきた私には、すでに強固な呪いがかかってしまっているから、ジェンダー平等の中心点がどこにあるのか、考えれば考えるほどわからない。

こんな曇りガラスのメガネをかけたまんま30年以上生きてきた自分が、「正解」を示すことなんてどう考えたって無理だわ。

わたしが子どもにできることなんて、ジェンダーの呪いに対して怒ったりあがいたりしている姿を見せることくらいなのかも。

そしてわたし自身に対しては「男」や「女」というキーワードが心に湧いてきた時に、毎回めんどうがらずにメガネをはずして視力の落ちた裸眼でそれらと向き合っていくしかない。

「ジェンダー平等が見えないわたし」が見る希望

社会から「男らしい」と「女らしい」が消えたら、何が変わるんだろう。
「清楚」や「おしとやか」、「硬派」や「勇ましい」などの性別を含んだような形容詞も消えていくんだろうか。
それともそれらの言葉からジェンダーのニュアンスが消えていくんだろうか。

しかし、「生まれた瞬間から異なる形のからだがある」という現実が変わらない以上、男と女という身体の性は存在する。
これからの私たちは、誰のからだのなかにも存在する「男性性/女性性」をなんて形容していくようになるんだろう?

残念ながらわたしが目をこらしても、社会が叫ぶ『ジェンダー平等』の全体像がイマイチよく見えない。
けれど、「男らしいとかやめなよ」と瞬時に反応してくれる世代が育んでいく次世代はどんな未来だろうと考えると、その想像もつかない未来には確実に希望が見える。

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