『PERFECT DAYS』(2023)非日常を観測するもの
『PERFECT DAYS』は日常の形成過程を描いた作品であり、役所広司演じる平山は、日常の中に潜む非日常を観測する者として存在している。
日常への執拗なこだわり
日常は、日々反復される一定数の行動によって形成される。行動の数や予想外の出来事に対する許容範囲は人によって異なるが、今作の主人公である平山はこの日常というものに対する異常なこだわりを持つ。彼は意図的に日常を作り出している。
日常を認識すること
平山の周囲では彼の日常から逸脱した予想外の出来事がたびたび発生する。姪が家出してきたこと、昼食の際に女性と出会うこと、トイレに〇×ゲームの紙が挟まっていることetc…。しかしこれらは平山にとって非日常ではなく、新たな日常の訪れを告げることに過ぎない。翌日も繰り返されることによって日常と化すためである。そして、その新たな日常は終わりを迎えるときがある。すると、新たな日常となる以前の日常が新たな日常として再び訪れる。平山はこのサイクルの存在を認知している。これが平山という登場人物の反=小津安二郎性だとも言える。小津の映画では度々別れによって新たな日常の訪れが描かれる。『晩春』や『麦秋』では結婚、『父ありき』や『東京物語』では葬式などのようにハレが関わる場合もあれば、『一人息子』や『長屋紳士録』のようにケのままの場合もある。どの場合であっても、別れによって登場人物たちは既存の日常の終わりと新たな日常の始まりを初めて認識する。
平山は意図的に日常を作り出すことによって新たな日常の始まりと終わりを認識しているのである。まるで小津安二郎の映画を鑑賞したことがあるかのように。平山とは異なり小津の映画の登場人物のように日常を認識するものとしてタカシに懐いていた少年がいる。彼はタカシとの別れによって新たな日常の訪れを初めて認識する存在として登場する。平山にとって重要なのは自らが定めた日常の先にあるものであり、それこそが彼にとっての非日常である。
日常の先にあるもの
意図的に日常を作り出す意味とは何か。
それは非日常を記録するためである。
そして、非日常とは、日常という行為の先にある「状態」である。
例えば、平山は自宅を出る際に、空を見上げる。
見上げるという行為自体に変化はない。しかし、空の状態は日々変化する。平山はそのような状態の変化を記録する者なのである。故に彼はカセットや木々を愛する。カセットは再生する度に劣化し、木々は日々成長する。それはごくわずかな変化だが、平山は日常を徹底的に遂行することでこの変化を記録するのである。そして彼は瞼を閉じた時、記録した変化をカセットテープのように振り返り、積み重ねる。これは日常の非日常性を自覚することを繰り返す行為である。彼にとって日常から外れた予想外の出来事は非日常ではない。日常の先にある状態の変化こそが非日常なのである。
状態を捉えること
あるものの状態を言語化する時に用いられるのが「形容詞」である。ゆえに映画の画面は無数の形容詞で溢れているといえるだろう。映画と小説の語りを比較したチャットマンは言う。
この両者の特性をジャン=リュック・ゴダールは『彼女について私が知っている二、三の事柄』の冒頭で利用する。画面に漂う同一の形容詞をナレーションによって抽出し、対象の状態を固定してしまう。
本来我々観客は映画を見る際に、カメラによって捉えられた無数の形容詞で満たされる画面を見つめ、自ら形容詞を選び取り、状態を認識することで、自身の日常とは異なる非日常の世界を体感する。
平山はこの無数の形容詞を持つ状態の時間の流れによる変化を日常を遂行することによって捉え、映画のカメラと同一の存在になることによって日常の先にある非日常を観測するものとなる。
つまり彼は生きる世界を映画と化してしまう映画監督であり、カメラであり、また同時にそれを見る観客でもあるのだ。ゆえに彼は小津の映画を鑑賞したことがあるかのように振る舞うのである。
参考
このnoteを書くにあたり毎日が月曜日さんの以下の記事を着眼点として大いに参考にさせていただきました。ありがとうございます。
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