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ギトリ映画における「数字」の支配

先日、シネマヴェーラ渋谷にて「知られざるサッシャ・ギトリの世界へ」という日本初のギトリ特集上映が行われた。
以前、同館のラインナップにあった『新しい遺言』(1936)や先輩からDVDを借りて『とらんぷ譚』(1936)を見て以来、彼の特集上映を熱望していた私にとって非常に嬉しい上映であった。
今回の特集で上映された作品は以下の通りである。

『祖国の人々』(1915)
『幸運を!』(1935)
『新しい遺言』(1936)
『とらんぷ譚』(1936)
『夢を見ましょう』(1936)
『王冠の真珠』(1937)
『デジレ』(1937)
『カドリーユ』(1937)
『シャンゼリゼをさかのぼろう』(1938)
『彼らは9人の独身男だった』(1939)
『役者』(1948)
『二羽の鳩』(1949)
『毒薬』(1951)

シネマヴェーラ渋谷

これらの作品からギトリ映画における「数字」について論じてみたい。
※あくまで記憶の中で書いているのでズレがある可能性がありますが、ご容赦ください

ギトリの映画にはとにかく数字がよく出てくる。年代、年齢、金額etc….
そしてギトリ演じる主人公(と場合によってはヒロイン)はこれらの数字の支配から逃れることで幸福となるのである。

『幸運を!』の数字

今回の上映において最も古い劇映画である『幸運を!』(1935)を例にとってみる。
ギトリ演じる主人公が、当時ギトリの妻であったジャクリーヌ・ドゥルバック演じるヒロインに対して「幸運を!」と呼びかけたことから幸運が連鎖し、最終的に2人は結ばれるというプロットである。
ギトリ映画であるあるのご都合主義の夫婦イチャイチャ映画(ただ、トークショーにて濱口監督も指摘していたがこれを観客に楽しませ、納得させてしまうのがギトリの凄まじい点)なのだが、この映画の中では2つの数字が登場する。年齢と金である。

『幸運を!』(1935)

年齢

まず、年齢だが、ギトリ映画ではしばしば登場人物がヒロインと年の差があることについて言及する。この映画においても序盤にギトリ演じる主人公とヒロインの年の差について言及されていた。彼らはこの年の差を乗り越えてラストで結婚することになるが、年齢に限らず「数字」の支配からの解放がギトリ映画において重要になることが多い。

そして、「数字」からの解放過程の中で更に数字からの解放が行われる(又は登場時点ですでに解放されている)場合がある。それが『幸運を!』においては金である。ドゥルバック演じるヒロインは幸運によって宝くじで200万フランを手に入れたり、色々あって自暴自棄になった主人公が一文無しになったと思ったら、カジノで大当たり50万ドルを獲得したりする。ここから分かる通り、彼らは金からは非常に自由なのである。金額というものを気にすることなく欲望のままに金を得て、金を使うことができる。まさに「数字」から解放された存在だと言える。

少し脱線するが、この金から自由であることというのはスクリューボール・コメディの諸作品、特にスタンリー・カヴェルが再婚喜劇と定義したものに共通する特徴と一致する。ヴェーラの冊子内でも言及されていたが、この『幸運を!』という作品はホークスとの類似点が見受けられる。

『彼らは9人の独身男だった』と『二羽の鳩』

話を戻すとギトリ映画においては数字の支配から解放される(されている)ことによって幸福を手にすることができる。
『彼らは9人の独身男だった』(1939)でも、9人のホームレスたちとギトリ演じる主人公は金(数字)の支配から解放されることで様々な形で幸福を手にする。金(数字)の支配からの解放は十分な金を得ることでも得た金を進んで手放すことによっても達成される。
また、『二羽の鳩』(1949)においても金の支配からの解放によって登場人物たちは幸福を手にしている。

『彼らは9人の独身男だった』(1939)

数字の支配からの解放によって幸福を得るのだとすれば、数字に支配されている状態は不幸であるということだ。

『シャンゼリゼをさかのぼろう』の数字

数字の支配による不幸の例として『シャンゼリゼをさかのぼろう』(1938)が挙げられる。
この映画は年代、年齢はもちろん、計算も登場し、物語のラストでも「数字」が非常に重要な意味を持つ映画である。

冒頭

物語はギトリ演じる物語の語り手たる教師が、生徒たちに掛け算の問題を出題することから始まる。問題の出題に対して生徒たちはため息をつく。
ふと教室にかけてあるカレンダーの日付に気が付いた教師は計算をやめさせ、シャンゼリゼ通りの歴史について語り始める。

この一連のシーンはギトリ映画における「数字」の支配を端的に表しているといえる。計算を課せられた生徒たちは不幸になり、解放されたことで幸福になっている。
そして、映画を見た人はお分かりだと思うが、日付を見たことでシャンゼリゼについて語り始めた教師は数字に支配された人物である。

『シャンゼリゼをさかのぼろう』(1938)

数字に支配された運命

上記の画像はギトリ演じる教師が自身の「数字」に支配された運命について語るシーンの切り抜きである。
彼はルイ15世の曾孫であり、ナポレオンの孫という設定なのだが、彼の祖先たちはみな54歳で結婚し子を持ち、64歳で死ぬという運命を持っている。
そして、ギトリ演じる教師はこの日64歳の誕生日を迎え、10歳の子供を皆の前で紹介してラストを迎える。
死の場面を描かないのはギトリらしいが、少なくとも彼に不幸が訪れることは確かである。

『デジレ』

数字の支配による不幸は『デジレ』(1937)でも描かれている。召使が雇い主に恋をする話だが、この映画はギトリ映画では珍しく、2人は結ばれない。ギトリ演じる召使は雇われるとき、賃金の交渉を持ちかけており、これは彼が金に支配されていることを示している。

処女作『祖国の人々』の意図

では、なぜギトリ映画において「数字」の支配からの解放によって幸福がもたらされるのか。
これはギトリの処女作である『祖国の人々』(1915)に答えがある。

この映画は劇映画ではなく、ドキュメンタリー映画である。
ギトリはロダンやルノワール、モネなどフランス芸術界の巨人たちの作品制作の様子をカメラに収めている。
彼は映画というメディアの特性が時間を保存することにあり、歴史に残る芸術家たちを記録することの重要性を理解していた。
ギトリは映画によって時間という「数字」の支配からの解放を試みたといえる。そしてこの作品は複数バージョン存在しており、1939年以降には彼の父であるルシアン・ギトリの映像が追加される。(ギトリに本当に似ていてびっくりした。)
ギトリの父を「数字」の支配から解放する試みは『役者』(1948)に引き継がれる。

ギトリは数字の支配から逃れることによって映画内においても現実世界においても幸福を得たのである。
その時間の支配から逃れた幸福の断片を現代においてみることができた我々もまた幸福なのだ。




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