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『モダン・タイムス』(1936)回転と直進


はじめに

喜劇王チャップリンによる資本主義を風刺した1936年の映画『モダン・タイムス』には幾度となく回転の運動が繰り返される。
印象的なのは、工場の歯車の回転だろう。他にも様々な機械の回転する運動が、劇中には登場する。
ただ、この回転の運動を行うのは機械だけではなく、人間であるチャップリン演じる工員もこの運動を行う。
この回転という運動は「人間性の欠如」を表しており、これと対になる「人間性の保持」を示す運動が直進であると私は考えている。

回転と直進

まず、回転と直進とはどのような運動であるか。精選版日本国語大辞典にはそれぞれ以下のように記されている

回転
平面や空間の図形や物体が、その各点の相互の位置関係を変えることなく、ある点や直線のまわりを一定角だけまわること、あるいは、まわりつづけること。

直進
まっすぐに進むこと。

コトバンク,『回転』,『直進』,精選版日本国語大辞典

上記の語意から考えると、回転は前に進むことはなく、一定の場所に留まり続ける運動、直進は前に進んでいく運動であることがわかり、両者が相反する運動であることがわかる。
チャップリンはこの対立する運動を映画内で巧みに利用している。

機械の回転

この映画では冒頭から時計が映し出され、回転が機械のものであることが示されている。(図1参照)

図1

その後、工場での労働の場面に移り、ベルトコンベアでチャップリン演じる工員が労働している様子が初めて映し出されるシーンの前半部では機械の回転が複数重ねられており、観客に回転という運動をより一層印象付けている。(図2参照)

図2

工場長に対して全自動の食事機械をセールスマンが訪問する場面では、レコードが回転しており、全自動の食事機械もまた回転することで食事を提供している。
また、工員がベルトコンベアに巻き込まれるシーンでは複数の機械の歯車が回転の運動をしている。(図3参照)

図3

映画が進み、再度工員が工場で務める一連の場面においても複数の歯車による回転の運動が繰り返されている。(図4参照)

図4

以上のようにこの映画では回転が機械における特徴的な運動であることが示されている。

人間の回転

この映画において工員は4度の回転を行う。
労働下では3度の回転を行うシーンがある。
1回目は工場のベルトコンベアで労働する場面である。(図5参照)

図5

ベルトコンベアに流れてくるパーツのボルトを締める労働を過剰に行ったことによって、腕にその動きが染み付いてしまい、腕が回転し続ける。
2回目はデパートの夜間警備員として働いている場面である。
一見すると、少女とやりたい放題やっているように見えるが、彼はローラースケートを足につけ、回転する。
彼自身が回転する訳では無いが、ローラースケートの車輪もまた同時に回転し、2つの回転が重なっている。(図6参照)

図6

3回目はキャバレーでウェイターの仕事をしている場面である。(図7参照)
注文されたローストダックを届けようとするが、ダンスをする大勢の客に巻き込まれ、円を描きながら移動し、工員自身も回転している。

図7

労働以外の場面での唯一の回転が刑務所で意図せず、ドラッグを摂取してしまう場面である。(図8参照)

図8

ドラッグによって錯乱状態になった工員は回転を繰り返しながら移動する。

回転すること

『モダン・タイムス』では冒頭から機械の回転を捉え、観客に機械と回転の結びつきを観客に強く示している。
この映画において機械の特徴的な運動である回転を人間がすることは、どのような意味があるのであろうか。
これは人間性の喪失を表しているのだ。
同志社大学教授の坂本清氏は、資本主義下の労働における人間性の喪失について、以下のように述べている。

「近代化」のプロセスは科学技術の発達と管理システムの発達とを媒介として展開されたが、それは同時に、作業と管理の「非人間化」のプロセスであった。

坂本清,『テイラー, フォードと労働の 「非人間化」 の意義』,同志社商学,2000,p799

また、同氏は大量生産、大量消費を前提とした社会について『モダン・タイムス』を例に挙げ、「人類の夢」であり、「非人間化」の世界である矛盾を内包した社会としている。
すなわち、労働という行為は人間性を失うことであり、それ故に、この映画で労働下にあるチャップリン演じる工員は機械の特徴である回転の運動を行うのである。
ドラッグを摂取することも労働と同じく、人間性を失う行為であるが故に、工員は回転したのだ。
今まで述べてきたように、『モダン・タイムス』で回転は機械や人間性を失った人間が行う運動として描かれている。

人間の直進

この映画において重要な直進の運動は2度ある。
1回目は工員が退院し社会復帰したあとの場面である。(図9参照)

図9

トラックが落としていった(おそらく赤と思われる)旗を拾ったところ、その後ろからデモの一団がやってきて意図せず先導者となり、直進する。
2回目はラストシーンである。(図10参照)

図10

警察から逃げてきた工員と少女は、自由な生活を求め、一本道を直進する。

直進すること

この映画の直進は労働に対する抵抗を表すもの、すなわち人間性の保持を示すものである。
1度目の直進では、意図せずではあるが、工員はデモに巻き込まれる。
このデモに参加している人々は「UNITE」や「LIBERTY」の文字が書かれた旗を掲げており、労働者の権利を主張するためのデモであると思われる。
すなわち、このデモは労働による人間性の喪失に対して抵抗し、人間としての権利を主張しているのであり、その中で工員は直進しているのである。
2度目の直進は、工員と少女が長い一本道を2人で歩んでいくラストシーンである。
彼らは、警察から逃れるために長い道を歩んできた。
結果として、それは工場のある街から抜け出すことになり、資本主義の労働環境から開放され、人間性の保持につながる行為だったのである。
直進は回転という労働を表した運動に対して、抵抗し、人間性を保持するための運動として映画内で印象的に使用されている。

『自由を我等に』(1931)における回転と直進

ルネ・クレールによる『自由を我等に』はベルトコンベアのシーンやラストの直線道路のシーンの類似性から『モダン・タイムス』への影響が指摘されれ、制作会社による訴訟まで起こった作品である。(尚、この訴訟はルネ・クレールの鶴の一声によって取り下げられている。)
『自由を我等に』と『モダン・タイムス』は内容だけでなく回転と労働を接続させる点についても一致している。

主人公のルイは刑務所から脱走し、自転車と激突する。
彼はその自転車を盗み、囚人番号をゼッケンと勘違いされ、レースで優勝する。(図11参照)

図11

彼は自転車という車輪が回転する物によって労働者となり、出世していくのだ。
質屋から服を盗み、露天商となったルイはレコードの販売を行う。
この回転するレコードにカメラがクローズアップし、スーツを着たルイの姿がモンタージュされることで次のシーンへと移行する。(図12参照)

図12

ルイは露天商からレコード販売店のオーナーとなり、先程のシーン同様回転するレコードにクローズアップし、レコード型の看板がモンタージュされ、シーンが移行する。(図13参照)

図13

オーナーからレコード会社の社長へと登り詰め、ルイは出世を果たすわけだが、回転によって連続するシークエンスはここで終わらない。
会社の看板にクローズアップし工場の煙突がモンタージュされ、シーンが移行する。(図14参照)

図14

いくつかの煙突を映したカットの後、1本の煙突にあるロゴにクローズアップし、レコード工場労働者たちのタイムキーパーとモンタージュされ、シーンが移行する。(図15参照)
これが『自由を我等に』において回転と労働を接続する一連のシークエンスである。

図15

そして、直進は『モダン・タイムス』同様にラストシーンにおいて行われるのである。(図16参照)

図16

以上のように『自由を我等に』でも回転と直進は対比する運動として描かれている。
しかし、あくまで回転するのは無機物だけでありその影響は人間まで及ぶものではない。
『モダン・タイムス』では人間が回転することで労働によって人間性が排されてしまうことを示している。

終わりに

『モダン・タイムス』は回転を人間性の喪失と、直進を人間性の保持として対比されている。
この映画内での直進は労働に対する抵抗として使用されていることは前述のとおりである。
また、『自由を我等に』の『モダン・タイムス』への影響は色濃く存在するが、回転を人間に反映することで模倣となることを回避している。
機械と労働を回転という運動によって結びつけ、資本主義下における人間性の喪失を指摘し、回転に対する運動として直進を使用することによって人間性の保持の重要性を表現しているのである。

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