「みんな」が理論は凶器である

そもそも「みんな」とは?

「みんな」この類の言葉は大変便利であるが、同時に凶器にもなる。もちろん私も使っているし皆さんも使用しているだろう。

早速、共感を呼ぶために「みんな」に類する言葉を冒頭で使用させてもらった。しかしながらこの場合は凶器になるリスクは少ないだろう。

あくまで、世間一般に向けての問いかけや呼びかけに使用しているだけの話であるため、安心であろう。

怖い「みんな」の使い方

一番怖いのは自身の意見を述べる時の話である。ここで「みんな」に類する言葉を使うことで世間一般論であるということを示しているつもりになってしまい、聞き手側も世間一般論であると考えてしまう。

そこになぜリスクがあるのかといえば話は簡単だ。1+1=2というのは世間一般でも認知されており、数式を改変することはできたとしても右辺と左辺のイコールで結ばれる関係は維持される。
この場合は「みんな」を使っても問題はないが、リスクがあるのは多くの人物を対象とした場合だ。
似た好みや性格の人を集めたとしても確実に100%全く同じ人を見つけ出すのは困難である。「○○好きは全員」といった表現をしてしまうと一見、具体的だが好きならOKで含まれるのであり、好きの度合いもハッキリしない。

この瞬間に発言者と聞き手の中で「○○好き」範囲のズレが発生する。つまり意見の考え方も相違すると考えられる。

身近なズレ

企業の商品展開だとしよう、意見した人が「みんな」といった表現をしたために聞き手が採用したとする。
その結果、万人が利用することなく一部の人間のみ利用する事態になる。
そこで意見した人の考える範囲の「みんな」が利用が済んでいると考え、聞き手側の解釈である「みんな」は利用していないという認識のずれによる揉め事などへの発展も秒読みとなる。

これは、実際に何かを行う際に「みんな」を使ってしまった際のトラブルの可能性だが、もう一つ、凶器となるシーンがある。
それは自信の考えに箔をつけるために使う「みんな」である。

たった一個人の意見を言うために口癖のように「みんな」に似た類の言葉を付ける人も多いだろう。先述との違いは、範囲指定を行わない場合であるという点に注意していただきたい。

先述のは「○○」という対象物があり派生した場合である、これから述べるのは対象物を見つけられずにいるが自分の一個人の考え方ではなく自身が平均的な考え方であるということにしたいという表現のために用いる「みんな」である。

要するに「みんなそう思うはずだ」という使われ方をするみんなである。この瞬間に聞いている身としては一瞬正論に感じるが、発言者は本当に世論の中心的人物なのだろうか?本当に無作為抽出によるアンケートを行っていくと100%同じ回答になるから「みんな」という言葉を使っているのだろうか?私見を「みんな」という言葉で正当化するだけであり、無駄なフレーズではないだろうか?

極端な例を2つほど上げたが、もちろん抽象的な「みんな」という表現を行うのも会話の中で理解はしている。例えば、「この道路はみんな速度超過をして通過している。」といった具合だ。この場合は実際に走行したり見たりしている実例のある「みんな」であり、一つの意見として良いだろう。

ちなみにだが「常識的に」も同じである。常識の基準が具体的になっていない。

つまり言いたいことは

私もそうであるが「みんな」といった類の言葉で正当化せず、されずに自身の意見をいかなる場合でもしっかりと伝えられるようにすることが必要であると私は考える。


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