連続ブログ小説「南無さん」第十三話(前編)

尿道の分裂が始まったのは、今よりおよそ1000年ほど前と伝わる。というのも、これまでその経緯は口伝に頼ってしか伝わってこなかったため、現代に至るまでに種々様々、宗門によって脚色され枝分かれしており、もはや史実の原型を明らかにすることはできなかったのだ。現在主流である表千摺家と裏千摺家の示すものはその門徒拡大のため活字となって久しくして世人の多く知るところではあるが、あくまで伝説の域を出ない。

ただ1000年前にも記録はある。

もっともそのころは尿道という名前もなく、ただ尿があり、人々は各々思うがままに尿を嗜んで暮らしていた。当時の資料として残る日記には「愉尿」という言葉が多く見られるが、中でも歌人として有名な藤原清魔羅が隠居中に著した『隠魔羅記』には、それが自身を含む貴族階級の風土としてばかりでなく、庶民の様子としても記録されている。

身分の別を問わず気軽に尿が楽しまれていたことを示すとして、この日記の資料的価値が高いことはもちろん言うまでもない。

ところが近年、その新たな価値が発掘されようとしていた。

清魔羅の様子を伝える資料としては、本人の『隠魔羅記』のほかに、その傍仕えであった玉袋典侍が著したとされる『干乾昇天日記』がある。玉袋典侍自身の生涯についておもに綴ったものだが、清魔羅に仕えた18年間については詳細に彼の様子が記されている。清魔羅の最期は凄絶で、当世随一の博学聡明と歌われた彼があるとき突然発狂して、ひとしきり訳の分からぬことをまくしたてたあと倒れ伏し、そのまま床から起き上がらなかったとある。これまでその記述は天才清魔羅をめぐる謎の一つとしてしか取り上げられてこなかった。しかしこのほど、玉袋典侍の記述をもとに『隠魔羅記』自体の再検討が行われた。

細かく読み解かれていく中でわかってきたのは、清魔羅の発狂は突然のものではなかったということ。

そしてそのきっかけとなった事件こそが、今日まで謎に包まれていた尿道分裂の発端だったのではないか。

そんなことが、尿道史学界では大きく取り沙汰されるようになった。

(つづく)

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