怖い女の魅力を語らせてくれえ〜っ!
わたしはみた!!
色々な媒体に見え隠れするファム・ファタールを!!
怪しい願望を!
こんにちゎ、潤子です。
今回は映画だけでなく「絵画」から、「神話」「漫画」などいろんなものが偏在する記事になるよォ。
長くなると思います、アーユーレディ。
それぞれ媒体に共通する ひとつのテーマ、
「ファム・ファタール」
についてちょっとだけ。
世紀末デカダンスにあわられたこの概念、みなさんどっかでチラッと聞いたことはあるんでないかな。
世紀末デカダンスのキーワードは「印象」と「象徴」だ。
「印象」、インプレッションが昼の光をとらえ、その一瞬の柔らかな瞬間を写し取るのなら
「象徴」、メタファーは夜の深い森の中の幻視です。
象徴主義におけるモチーフは神話や夢、古代社会、異国、オペラや演劇。
モローやルドン、クリムトなどに代表されるような象徴主義とまとめられる画家たちが登場し、幻想を描くことが一種の流行となっていったのは、写真の登場が理由の一つかもしれない
そして、象徴的な絵画での女性の描かれ方の変化です。
とりわけ魔女、呪われた女、怖い女たちが多く描かれている。なぜ女性がそんな風に描かれたのか。
この時代の女性たちは抑圧された、大きな謎だったのだ。
ポストモダニズム後の世界には薄れた、女という謎。
それらは蠱惑的な恐怖とかエロスを象徴するモチーフの一つとさえいえます。
超人間的な美しさ、魔術的で、神秘的で不思議に満ちた女たち。それらは画家たちにとって女神にも、悪魔にも、はたまた少女のようにも見えたのでしょうか。
幻視を描く中でそれらの一欠けらでも狩り、つかみたいという芸術に世紀末デカダンスは取りつかれていた。
つまりひたすら「美」のみに価値を見出し「美」のための「美」を追い求めようとする唯美主義に耽溺していく……。
魔性の女、ファムファタルはその流れの生み出した功績でしょうか。
ファムファタルといわれるような女性が出てくる作品は、正直言って好みです。
そんでもって、その研究の集大成的な記事を書きたくなってだね。
おもに文学、映画、絵画(神話)、漫画のファム・ファタールを1人ずつ紹介したい。
さまざま見漁るうちいろいろ私がこれまで見てきた魔性の女たちにも性格の偏りといっていいか、タイプがあるという考えにたどり着きました。
そして考察しているとなぜそんな女に魅了された男たちは破滅に向かわざるを得なくなるのかということ、さらに男性の欲望の本質も、すこしだけ垣間見えてきます。
しかし創作物に魔性を見る場合、ほんとうにあまた危険なラブストーリーというものが存在するしあれ、これも魔性っぽい…っ?と思えてくる。特に谷崎文学にいたってはたいがいの作品に、ナオミ的な要素を宿した女性が登場するのだから困った。
谷崎潤一郎という文学者はさまざまなサディスト美女を、いろんなベクトルで、美しく危険に描く第一人者である。
話がそれたが「痴人の愛」のナオミは、日本において魔性のステレオタイプを決定づけたと考えてます。
そこでナオミを基準として自分の中で条件を決め、当てはまるキャラクターを探しました。
で、こうなった。
絵画から「サロメ」「レディ・リリス」
文学から「娼婦の女」
映画から「マレーナ」
漫画から「富江」
様々な魔性を、私なりの解析をボソボソ語ってみますね。
怪奇!トランス状態に生首あらわる!!
まず絵画。
これはやはりモローの「出現」ですよね。そこでとりあえず、語ってみますよ。
旧約聖書に登場するサロメちゃんのワンエピソードを描いた絵。
好きな人の生首を踊りのご褒美として所望するおはなし。
なんちゅーか本中華、倫理観ぶっ壊れてるのがいいね。
ところが今回の記事を書くにあたりヨハネによる福音書を読みこむと、
サロメはヘロデ王の娘としてチラリと登場するのみで洗礼者ヨハネは別にサロメに熱を上げている様子はないんだ。
それどころか、ヘロデ王と結婚したことを批判されたうえに群衆に人気があったという理由でヨハネを忌み嫌っていたサロメのお母さんが
娘をそそのかして王にヨハネの首を切り落とさせたとある。なんというか、お母さんのほうがよっぽど悪女ではないか。
サロメはただ判断力のない、王の寵愛を受けた踊りのうまい少女だ。
これじゃ、「その女自身の怖さを考える」っていう私の記事のコンセプトからズレている気がするよ。
どうやらオスカーワイルドの戯曲と混同していたらしいネ。
神秘と魔物のあいだ、最初の誘惑
そこで次に考えたのはラファエル前派の代表作家、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティによる
「レディ・リリス」である。
絵画のみ、2作品紹介してるけどまあいいや。大の字。
まったりゆったりゆるく紹介するスタンスだもんね(言い訳)
彼は西洋画家の石川啄木だと私が一人で勝手に言い続けているだけあって、人間関係のしがらみのなかで様々な女性を描いた。
奥さんが、ロセッティとの不和が原因で麻薬におぼれたり(しかもそれで亡くなってる)特に詩人でありデザイナーのウィリアムモリスの夫人、ジェーンモリスとは、生涯不倫関係が続いたという資料もあったからもうやばい。
しかしそんな彼だからこそ、女の怪しさや怖さを華やかに美しく繊細にえがけたのだと私は思うヨ。
ロセッティの描いた女たちはとても神秘的で蠱惑的で、色味は鮮やかなのに表情はアンニュイでもある。画集などをじっと眺めているとその視線にたしかな強さを見出せるんだ。
豊かな髪と目にも麗しき色彩。妖艶さが溢れてますね…。
手に持った鏡は、自分の美しさだけを見ていることの現れ。豊かな長い髪も罪深さの象徴であるとか。
リリスはアダムの最初の妻で「邪悪な誘惑者」とされている。リリスは自分とアダムを平等に扱えと頼み、サタンと交わり悪霊を生んだのち蛇にされてしまう。リリスの化身がアダムとイヴに知恵の実を食べることをそそのかしたそうだ。やばい女である。だが果てしなく美しい。
このタイプの魔性は、その名に恥じぬ真正の悪女といえる。人類最初の魔性だ。だが従順だったイヴよりもリリスのほうが、男と平等に扱ってほしいという願いからしてモダンで芯の強さがあって好きだわ。
聖書を読んでいると、所々に従順でない女やフェミニズムに対する男性たちの違和感、そしてミソジニーが見え隠れしていると感じてしまうのは私が女であるからか。
海は無慈悲な肉欲の女王
お次は文学のなかの「定番でない」ファムファタルを探したがいかんせん私自身が、小説となるとディックやクラークやギブソンといった海外の古典的なSFばかりを好んでいたためどうもこれだ!というものが出てこない。むりくりこじつけようとしてでたのが筒井康隆の「パプリカ」主人公、千葉敦子ちゃんなのだがあれは悪女どころかどう考えてもいい女だ。可愛い。却下。
乏しい文学知識の中で絞り出したのは
坂口安吾大先生の短編「私は海を抱きしめていたい」。
タイトルの美しさに惹かれたが最後、娼婦で無感症の女とただれ続けた果てに最終的には私の肉欲も海にぶちまけてしまえればいい、そして消えればいいと着地するトンデモ内容である。
ノット健全を地で行く内容だなぁ。大の字。
痴人の愛と違ってこちらの男は、自分がよくない生き方をしていると自覚の上割り切って、女のからだだけを愛している。だからこそこの男ほど、女を深く愛しているものはなかったと。
「満たされた心は小さくてかなしい。私は肉欲の小ささが悲しかった」。
恋ができない男が同じく人を愛さない奔放で頭が悪くて無感症で貞操観念がない女の中に自分自身を見出しては葛藤している様子がうかがえる。
また「幸福などというものは人の心を本当に慰めてくれるものではないし、性に幸福を見出す必要もない」と続く。
性は孤独だ、とつきつけてくる。ここら辺に、魔性の女の真実があるように思う。
このタイプの魔性は真正の怖い悪女かといわれると、じつはそんなでもない。それよりも男のエゴイズムが見せる幻視のようだ。
読後残るのは、魂とか心とかの不明瞭さが浮き彫りになったようなやるせなさ。語り手の男は終始投げやりで、肉欲だけでつながる描写が赤裸々だ。
愛することも愛されることも幸福も知らず、でもそれは感情がないからというわけではない。
魂のつながりを求めて、浮世の真似事がごとくまた肌を重ねているように読み取れた。まるで2人ともが人間に作られたロボット、つくりものみたいにして……。
それでも生きていく。その先に破滅が待っていようとも。快楽がないのに抱き合わずにいられない女を憎みながらもおぼれるうち女のからだが大きなうねりを持ってますます透明になっていく。まるで水を抱きしめているよう。それに海は母性の象徴であるが海に抱かれたいではなくて抱きしめたいといっているところがまたなんとも。
最後には、海岸に立つ女が大きな波にのまれてしまう幻覚を男は見た。
私は海を抱きしめていたい。
イタリアの宝石は悲しく澄んで
さてお次は映画の中にみつけた魔性をば。「氷の微笑」のキャサリンに美しさでも悲劇性でも負けてないぞ!
「ニューシネマパラダイス」監督ジュゼッペ・トルナトーレのイタリア映画より「マレーナ」。
第二次世界大戦中のシチリア島が舞台。主人公のチャリンコ少年レナートが思春期に一目ぼれしたのは街で有名な美女マレーナ。戦争未亡人です。
このマレーナの転落劇を、彼女にあこがれるレナートをとおして描いているわけです。最後らへん娼婦になっちゃったりするマレーナを、助けてやりたくても少年だから見ていることしかできないレナート……。
町の人々もとにかくひどくてだね、しんどい。
彼女が娼婦になったとき大勢の男がよってきて彼女のくわえた煙草に火をつけるシーンはとても悲しい名場面。
だけどどっかミュージカルチックなカット。
男を見るマレーナの冷え切った眼はぞっとするほどに美しい。そして音楽と画面のカット一つ一つが繊細である。
全体的にセピアがかった雰囲気は、どこか懐かしくてシチリアの暖かな海風がこちらにまで吹いてきそう。
このタイプの魔性は、男だけでなく美しさに嫉妬しリンチする女たち含めて、周りの人間たちが作り上げたものだ。
マレーナは美女だがそれを鼻にかけている描写はなく、ただ「仕方なく」、美しさを武器にしている感じ。先ほどは男のエゴイズムのみで魔性たり得たがこれはもう人間の欲望や醜悪な部分がマレーナという女を作ったのだ。ようは魔性の女よりももっとやばいものがあるという感想を持った。
それはまわりの群衆。
これ、じつはまわりが本当の主役なんじゃないかな〜なんて思いました。
すべてを知っても傍観者でいる人間の醜さや弱さ。
その弱さが、マレーナという女を形成していった。
はて!男を転落させるやばい女の恐ろしさを語ろうとしたがここまで書いて、本当にえぐいのはファムファタルの周りに必ずいる男たちなのでは!と首を傾げた。
「ファムファタルは、元からそうであったわけではない」。この結論に行きついてしまった。ようは男のほうにもともと破滅させられたいという願望があったのではないか。
人間の男ってみな、どこか無意識下に他力本願な破壊願望があるのか?
という、男性に対するゴリゴリの偏見まで湧いてきてしまったよ……。何だこの記事。やべーめちゃくちゃ怒られそう。
その女、怪異。
では最後にはその逆説としてその女自体が恐ろしく、「まさに魔物」である一例をば!!
ホラー漫画「富江」を挙げるね。
これまでやるせなさや人間の醜さの中でだんだん立ち現れるファムファタルといった具合だったがこのタイプの魔性、純粋に富江そのものは
生来のおぞましき美女である。
もはや「富江という名の怪異」。
この一連の作品は様々な男が出てきては富江と関わったが最後、魅入られ、どうしても富江をバラバラにしてしまうという結末だ。
富江と目が合っただけで男はほぼ自動的に、無理くりと言っていいくらい自動的に惚れるという理不尽性が、怖さマシマシ。
富江は何度も何度も殺される。
だがどういうわけかバラバラにされた肉の一片一片から新たな富江が増殖していく。
殺されれば殺されるほど増えるのだ。
再生途中の描写が凄まじくグロテスクで怖すぎる!画力が高すぎて怖さマシマシⅹ2。
絶対かかわりたくない…。富江に狂った男たちの絶叫は凄まじい。
「はぁ……富江…富江…!!お前の口づけを与えてくれ!俺だけのものになってくれえ!」そして包丁で富江を切り刻む…怖い!怖い!
サロメどころの騒ぎではない。
作者の伊藤潤二大先生によると富江は人間の嫌なところを詰め込んだらしい。
殺されて当然な傲慢な女と言ったら怒られるだろうか。
しかしまあくせ者なのが、とにかく伊藤先生の描く女性の美しさと言ったら漫画というよりアートである。
ほかの漫画にはない妖艶さが際立っている。そして読んでいるうちにだんだん富江が可愛く見えてくる。
「かわいそう」と思えてくるのだから…どうしたことか。
読んでいるこちらも富江ばかりが目に入るようになっていく感覚さえあるのだ…ああ……富江…富江…!!
で、結論は。
ずばり「ファムファタルは男性ありきで現れる」といったところ。
そんで時に現れる富江みたいな魔物はその願望が意志となり形作られた一種の幻視で怪異なのかななんて。
そう思ったよ、潤子は。
もちろん男全員がいい女に全部貢ぎたい願望持ってるとか、そう疑ってんのかお前は、ふざけんなと言われたら正直うっすらそうだよ。認めるよ。
まあど偏見だってわかっているけれども、これを読んでいる男性がいればチョット自分に問いかけてみてくれ。
もうね、一連のファム・ファタールロマンスをみていたらチョット疑っちゃうよ。
断っておくけどこれはフェミニズム的なお話しとは全く切り離して考えてね。
あたしにそんな気質はないと断言しよう。
むしろ惑わされたい側。コラ!
それぞれを鑑みるにつけ、ひとくちに魔性の女といってもさまざまであることが分かったと思う。西洋美術にとどまらずにいろいろと比べると男性の破滅の仕方も本当にさまざま。
世にあまたあるファムファタルの魅力を解析すると、夜の暗い森に惹かれる心理の本質さえつかめそう。
まだまだ分野問わず研究してみたい。
最後はラブロマンスというジャンル自体の研究にも繋げたいねえ。大の字。
今回はとにかく情報量と熱意詰め込んでしまった感が否めないから、ここまで読んでくれてありがとうと言いたい。暑っ苦しいなと自分でも思うwwww
言いたいこと伝わってる???
あなたの好きに、ゆっくり読んでくれてたらいいな。
じゃあね、今日はここまで🌟
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