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いつまでも「待ち合わせ」が苦手で、いつまでも「都民」になれない

私は「待ち合わせ」が苦手だ。

昔むかし別れた恋人は近くに住んでいたので「待ち合わせ」をする必要が無かった。その前の恋人とも半同棲のような付き合いだったので同様。なのでLINEも電話も、あまり必要が無かった。

その後は、実家や社員寮で暮らす人とばかり交遊していたので、今ではすっかり「待ち合わせ」が当たり前になった。

私はもともとすごく神経質というかキッチリしたいタイプで、学生時代は友人と待ち合わせる時も絶対に遅刻しないよう、10分前には待ち合わせ場所に到着出来る乗車時間を確認していた。
しかし、みんな決まって遅刻する。スマホを持っているので「じゃあ明日は18時に渋谷で」と決めれば、ほぼ会えるから。当時は遅刻されて待つよりも遅刻して待たせる方がストレスだったので、読書やウィンドウショッピングで時間を潰していた。

もやもやするのに疲れ、今では私も“時間ぴったりに落ち合うことなど、まず無い”と思うようになり、例えば「18時に渋谷で」と約束すれば相手によっては18時ちょうどに駅のホームに到着するようになってしまった。

待ち合わせの他にも、私は地図を読むのが苦手で、よく道に迷う。
そして、とっさに左右の区別がつかない。先ほど調べたら「左右盲」というらしい。

就職活動の時はとても苦労した。必ず地図を紙に印刷し、スマホに地図のURLも登録し、早めに出発して、それでも迷う時は迷ってしまいGPS機能を使ってもさっぱり分からないのだ。辿り着けずに面接を諦めた事も何度かある。

就職の際に住民票を移したので、東京都に住民税を納め、東京で選挙の投票に行く。おそらく私は東京都民なのだろう。

でも、私の出身地は東京からけっこう離れている。初めて東京へ来たのは、大学の二次試験の時で、その時に初めて飛行機に乗った。

そういうわけで、私にとっては埼玉も千葉も神奈川も、いや茨城も栃木も群馬も長野も山梨も静岡でさえも、東京のようなもの。それは今でもそうだ。茨城や栃木から通勤する人や、月に1度は群馬や静岡に帰省する知人もいる。新幹線すら使わずとも帰れるような場所に故郷がある人は、みんな東京の人に思えるのだ。

時々、東京出身者に東京を案内することがある。「俺、意外と都心で遊んだことがないんだよね」「僕はなんでも良いから、オススメのお店ある?」「地方出身者の方が、意外と東京に詳しいよね」なんて言われて。

昔、そう、私がきちんと若かった頃、かつての恋人とよく行ったお店や、素敵な人に連れて行ってもらったお店を思い浮かべる。ええっと、あの時は連れられて行ったから、どうやって行けば良いのだっけ……だとか、あの時はご馳走になったからどれくらいの値段がするのか分からない……などと悩みながら、お店を提案する。

そうして食事をしながら、時々、イントネーションの違いを指摘される。「やっぱり訛ってるね」と。私は一体、何者なのだろう、どこの国の人なのだろう、と思う。

東京に住むことを選んだのは自分だけれど、年月を重ねるごとに、なぜイントネーションを揶揄されながら、私は東京出身者に東京を案内をしているのだろう?と泣きたくなる。いい歳して、そういうのをひっくるめて強く生きていかなければならない現実に泣きたくなってしまう。きちんと若かった頃に、うんと甘やかされてきたからこんなことで泣きたくなってしまうのだ。そして、うんと甘やかしてくれた人たちを少しだけ恨んでしまう自分が情けなくて、また泣きたくなってしまうのだ。

「待ち合わせ」をする必要のない恋人がいなくなり、一人で道を歩くのが当たり前になり、そして外国人の多い会社で勤めるようになったことで、東京から離れたところで育ったコンプレックスは薄れてきたはずだったけれど、やっぱり時々どっと疲れが出てしまう。
きちんと根をはれたら何でもないようなことなのだろうか、早く本当の東京都民になりたい、と思う。東京都でなくとも、その土地にずっしりと生きている感覚が欲しくて、それが独身では叶わない気がしてしまうのだ。

行き過ぎた自己憐憫。きっと私は状況が変わっても、こうしてずっと自己憐憫しながら生きていきそうだ。

ああ、そうだ。このあいだ、素敵な「待ち合わせ」もあった。
私が「お花屋さんの前で待ってるね。あ、でもお花屋さんの前だと、綺麗すぎて紛れちゃうかな?笑」とLINEをしたら、お花屋さんに到着した友人が目の前で「あれ?どこ?見つからないよ」とLINEをする、そんな茶番に付き合ってくれたのだった。

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